時は少し遡り、カレンが月露の雫を手に入れた頃。
ミカエルは山の奥深くにある村で、全身が真っ赤に染まるほど返り血を浴び、ポツリと呟いた。
「──時は満ちたな」
周りには切り刻まれた肉塊が転がり、血の匂いが充満している。
人間を捧げるたびに魔神の力が増して、ミカエルに希望を与えてきた。
すべてはカレンを自分のものにするという願いを叶えるため。
身体についた血も闇魔法で吸収して、自らが神殿の役割を果たし、魔神デーヴァに捧げる。
あんなに浴びた返り血が綺麗さっぱりなくなったところで、魔神デーヴァがミカエルに話しかけてきた。
《ひとつ忠告しておこう》
「なんだ?」
《我が力を与えても、願いが叶わぬ場合がある》
「なにが言いたい?」
ミカエルははっきりしない魔神デーヴァの物言いに苛立つ。
まさか契約までしたのに、今さらできないとでもいうつもりなのか。
《お前の望みは永遠にあの女を自分のものにすることか?》
「そうだ。カレンを私の永遠の片翼にすると願ったはずだが?」
村人たちの血を捧げて、とっくに契約を結んでいるはずなのに今さらなんだというのだろう。
魔神デーヴァがこんな話をしてきたことに、ミカエルは苛立った。
《もし、願いが叶わない場合、契約は破棄される。よいな?》
「ふんっ、そんなことか。ああ、わかった。それで問題はない」
《今の言葉、忘れるでないぞ》
魔神デーヴァに釘を刺され、ミカエルは舌打ちする。
(この私に釘を刺すなど忌々しい奴め……! たとえ失敗しても、カレンを殺してあの賢者に時間を巻き戻させれば済む話だ。私が負けることはない……!)
ミカエルは魔天城が浮かぶ上空を見上げて、三対の黒翼をはためかせた。
「カレン……待っていろ。お前は私のものになる運命なのだ……!」
ぐんぐん高度を上げて、ミカエルは魔天城を見下ろせる高さまで空を飛んだ。
眼下には結界が貼られた魔天城がふよふよと宙に浮いている。
「以前は結界を破壊できなかったが……今の私ならばなんの問題もない」
ミカエルは両手に黒い霧を集めて、魔天城の結界に向けて大きく振りかぶった。
──ドオォォォンッ!!
黒い霧は鋭利な刃となって結界に直撃して、魔天城を大きく揺らす。
「ふむ。さすがに一撃では厳しいか」
そのまま二、三度、漆黒の刃を叩きつけると、魔天城の結界に大きなヒビが入った。
魔天城の鉄壁の防御が崩れた瞬間である。
「ふはははっ! いいぞ、このまま結界を破壊してやる!」
ミカエルが容赦なく漆黒の刃を連投すると、結界のヒビは大きくなり、やがて──。
──バキィィィィィィィンッ!!
大きな音を立てて、魔天城の結界はついに崩れ去った。
* * *
──ドオォォォンッ!!
なんの前触れもなく、大きな衝撃が魔天城を襲った。
「うわっ! なんだ!?」
「いったい今のは……」
薔薇園にいた大勢の魔法使いたちは慌てふためき、右往左往している。再び衝撃に襲われて身動きが取れない中、ひとりの魔法使いが空を見上げて固まった。
魔天城を守る頑強な結界の一点から視線が離せない。
「嘘でしょ……結界にヒビが……!!」
──バキィィィィィィィンッ!!
間髪入れずに衝撃が続き、これまで破られることがなかった鉄壁の防御が、粉々に砕け散った。
「結界が破られた……!」
「レイドル様に伝えろ!」
「早く、早く早く!!」
ある者は風魔法で浅葱色の小鳥を飛ばし、ある者は敵に備えて土魔法で壁を作る。
怪我をした者がいれば聖魔法で治し、闇魔法の使い手は影移動でその場から魔法使いたちを逃した。
そんな彼らの目の前に、三対の黒翼を広げたミカエルが優雅に降り立る。
「ふむ。魔法使いを生贄に捧げたら、さらに力を得られそうだな」
その場の残っているのは、魔導士と呼ばれる中堅の魔法使いたちだ。すぐに戦闘体制に入り、中級魔法をしようとしたのだが。
次の瞬間、魔法使いたちの身体は切り刻まれ、ミカエルはたくさんの返り血を浴びた。
「これは……村人如きとは比べ物にならん。狩りをしながら賢者を待つことにしよう」
目の前で起きたことを見聞きしていた魔法使いたちは、いっせいにその場から逃げ出した。
だが、次々とミカエルの漆黒の刃に刻まれて、ひとり、またひとりと命を落としていく。
一瞬でのどかな薔薇園が血に染まり、凄惨な
「ははははっ! すごい力だ……!」
逃げ惑う魔法使いたちに黒い霧が襲い掛かろうとしたその時。
「フレイム・ドラゴン!」
ゴオオッと唸り声を上げる紅蓮の炎竜が、黒い霧を蹴散らした。
燃えるような赤髪に鍛え上げられた逞しい身体。シャンパンガーネットの瞳は射貫くように敵を睨みつけ、炎をまとう剣をひと振りする。
魔天城の主人、レイドルがミカエルに対峙した。
レイドルは魔法使いたちを守るため、ある決断をする。
【魔天城の主人が命ずる】
魔天城の主人だけが使える緊急通達の魔法で、魔天城中にレイドルの声が届いた。
「ふんっ、あがいたところで無駄だ!」
ミカエルから漆黒の刃が放たれたが、灼熱の炎がゆらりと揺れてレイドルの身を守る。
【魔天城はただいまを持って封鎖する。残っている魔法使いは全員、至急退避せよ】
この緊急通達を聞いた魔法使いたちは、お互いに協力しながらほんの数十秒で魔天城から脱出した。
レイドルが魔力を感知すると、今、この魔天城に残っているのは、レイドルをはじめとした賢者たちだけとなっている。
「これ以上、お前の好きにはさせない」
魔天城の主人として、レイドルは単身ミカエルの前に立った。