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第10章 ジェンス――大神官の行列(後編)

 前に話したときは、ライオネラに来てそれほど日にちも経っていないと聞いたが、ユーリは観察力が鋭くて、自分が考えたことを言葉にするのが得意なのだろう。生き生きとした表情をみつめているだけでジェンスの心は軽くなり、昨日一日、書類や計算でうんざりしていたことも、きれいに忘れてしまっていた。


 話しながら歩いているだけで楽しいなんて、こんな気持ちは初めてだ。このままずっと、ユーリと一緒に歩いていられるといい。


 とそのとき、ユーリが急に立ち止まった。

「あっ」

「どうした?」

 ユーリはきょろきょろとあたりを見回している。

「ごめんジェンス、俺、道に迷った……かも。話すのに夢中で、どこを歩いているか見てなかった」

「大丈夫だ。俺はだいたい見当がつく」

「ほんとか?」


 ジェンスは自分でも気づかないうちに笑みを浮かべていた。これは馬に乗るのと同じくらいジェンスが得意とすることで、初めて行く土地でも道に迷うことがまずないのだ。一度歩いた道は忘れないし、すこし歩けば土地勘をつかむことができ、曲がりくねった道で方向感覚があやしくなった時も、直感の導きに従えばまちがいなく目的地へたどりつける。


「すごいな!」

 ユーリが満面の笑みでそういったのでジェンスは内心自分を誇らしく思った。エオリンには方向感覚が優れている傭兵が何人もいるから、自分が特に秀でていると思ったことはなかったが、ユーリに褒められると無性に嬉しい。


「こっちに進むとシリンガに出る。それでいいか?」

「ライオネラでいちばん賑やかな街だろう? うん、そっちへ行こう。一度手前まで行ったけど、奥まで行ったことはないんだ」

 ユーリはほっとした顔になり、うすく微笑んだ。そのとたんジェンスの胸の奥がぎゅっと縮まって、ほとんど痛みを感じるほど激しく疼いた。


 この笑顔をずっと見ていたい。心の奥にあるものにいまだ気づかないまま、ジェンスはそう願っていることに気づいた。自分がエオリンと共に別の土地へ移動することも、ユーリがひとりでどこかへ行ってしまうこともなく。


 あるいは何かの奇跡がおきて、自分とユーリが共にいられるようになるとか? たとえばユーリが傭兵団に加わって……。


 そんなことはありえないと、ジェンスは妄想を頭の隅に押しやった。どう見てもユーリは剣をとるタイプではないし、会計係や料理人として加わることもできない。ユーリがエオリンに加わる余地はない。正式な団員にもなっていないジェンスがエオリンにいるのは、赤ん坊のころにトラクスが拾ったからというだけのことだ。


 自分はエオリンでは半人前にすぎない。どれだけ馬を乗りこなせても、トラクスの手助けができたとしても、けっして主力には数えられない。おまけに団長のクエンスはジェンスが入団の宣誓をして新兵の一員に加わるのをやんわりと拒絶し続けている。


 周囲はだんだん賑やかになってきた。シリンガはライオネラで唯一、料理屋で酒を出すのが許されている街区だ。そのせいか子連れの巡礼や若い女性の姿は消えて、年上の男たちばかり目につく。すれちがった赤ら顔のおやじはこの時間から酔っぱらっているのかもしれない。


 ベンチで談笑している男たちがユーリに無遠慮な視線を向けているのが気になって、ジェンスはユーリを隠すようにそばへ寄った。とそのとき、反対側から思いがけず野卑な声が飛んできた。

「ほう、神殿のかわいこちゃんをつれて駆け落ちか」


 声の主は目つきの悪い大柄な男だ。ジェンスは一瞬たじろいだが、ユーリの反応は早かった。男をにらみつけて「なんだよ。うるせぇな、酔っぱらい」と返したのだ。


「おおっと、気を悪くしたかい、かわいこちゃん? だが昼間っからこんなところで遊んでいると、ご主人様に怒られるぞ」

 ユーリの頬が怒りでさっと染まったが、男はニヤニヤしている。

「おまえに関係あるか?」

「本物の侍者じゃないくせに、そんな格好はこの先の色街だけにしとけ。本物の連中に怒られるぞ」

「はぁ? なんだって?」


 ユーリは驚いた顔になったが、ジェンスは男が勘違いしたと思った。シリンガの奥にライオネラで唯一の色街があることはハッチェリに聞かされていて「ガキは近づくなよ」と警告されている。

 ジェンスはユーリを隠すようにさっと前に出た。

「俺たちのことはほっといてくれ。行こう」


 ところが男はジェンスの前から動かなかった。すっと目を細め、ジェンスにだけ聞こえるくらい低い声でいった。

「ほう、思いのほか礼儀正しいな。傭兵に囲まれて育ったわりに」


 ジェンスはハッとして男を見返した。次の瞬間、相手の背筋がぐっと伸びて、酔っぱらいの見かけが偽装だと悟る。

「残念だが用があるのはその金髪ではなくおまえだ。俺と来い」

 ジェンスはすっと息を吸った。

「断る」


 男は眉を上げ、太い手をぬっとあげた。だがジェンスは胸ぐらをつかまれる前にすばやく右へよけると、左足で男のすねを蹴った。男のバランスが揺らいだ瞬間を逃さず、足元の小石を蹴り上げる。

「この…!」

 男が声をあげたが、ジェンスはもうユーリの手を引いて駈け出していた。


 いったい何者かわからないが、あの男の目的は自分で、注意を引くためにユーリに声をかけたのだ。そんな相手にのこのことついていくわけにはいかないし、あれだけ体格差があれば、立ち向かったとしても武器がなくては逆に取り押さえられてしまう。

 するとうしろから「泥棒だ!」と叫び声が響いた。

「今逃げたガキだ! 捕まえてくれ!」


 まずい。


 ジェンスはスピードをあげようとしたが、するとユーリがジェンスの手を振りほどいた。

「ジェンス、待って……あいつはなんだ……」


 ユーリは前かがみでその場に立ち止まると、地面にしゃがみこんで荒い息をついた。ジェンスはすぐそばに突っ立って、焦りながら周囲を見回した。泥棒と呼んだ声に反応した人々が振り返ってじろじろこっちを見ている。さっきの男はすぐに追いつくだろう。

 今すぐひとりで走って逃げればどうにかなるかもしれない。でも、ここにユーリを置いていくのは嫌だった。

 いったいどうしたら――


 ふいに聞きなれた声がジェンスの葛藤をやぶった。

「おいおい、どうしたんだジェンス」

「チェリ!」


 ハッチェリが路地から姿をあらわし、ジェンスの方へ駆け寄ってくる。願ってもない助けだった。傭兵はジェンスの背中をバシッと叩き、思わずよろめいた肩に腕を回してきた。

「あいつはなんだ、ジェンス?」

 ジェンス以外には聞こえないくらいの小声だった。立てた指はすぐそこに迫った大柄な男に向けられている。


「俺は何もしてない。用がある、来いといわれたんだ」

「エオリン育ちのおまえになんの用があるってんだよ」

「だから逃げた」

「その子は?」

「ユーリは俺の巻き添えを食った」

「なるほど……よし」


 ハッチェリは腕をほどくと、くるりとうしろをふりむき、追ってきた男に向き直った。

「よう。どこの誰だかしらないが、俺たちの息子になんの用だ?」




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