いきなりジェンスの横にあらわれた褐色の男は、背丈こそ彼より低かったがみるからに歴戦の兵士だった。ジェンスの知りあいということはエオリンの傭兵にちがいない。
実をいうと俺はジェンスに腕をつかまれて走っているとき、何が起きているのかわかっていなかった。最初はごろつきに絡まれただけだと思っていたのに、そいつと相対したとたんジェンスの雰囲気はさっと変わって、俺を連れて走り出したのだ。
俺たちを追いかけてきた大男は、自分の前に仁王立ちしている傭兵をじろりとみおろした。
「あいにくだがおまえにも用はない。そこをどけ」
ドスの効いた低い声で、俺なら震えあがっていただろう。でも傭兵は馬鹿にしたように鼻を鳴らし、わざとらしい口調でこう返した。
「やれやれ、図体だけでかいやつってのは頭が悪いぜ」
「チェリ、気をつけ――」
ジェンスが何かいいかけたが、傭兵はもうそこにはいなかった。俺はまばたきした。褐色の男は一瞬で大男の背後に回ったと思うと、次の瞬間片手でその手首をひねりあげ、片足で膝の裏を蹴りつけたのだ。トン、と背中をひと突きされて、大男は地面に尻から崩れた。
「ほらな」
「……この」
大男は小さく呻いたが、むろんこれでおわったわけではなかった。すぐに立ち上がって傭兵につめよろうとする。でも傭兵はこれを待っていたようだった。体をひねって大男のふところにはいりこみ、その袖をとったと思うと、ひょいとその体を投げ飛ばした。
「だからいっただろうが、頭が悪いって。行くぞジェンス、おまえも」
次の瞬間、鮮やかな動きにみとれてしまっていた俺の手をジェンスがつかんだ。駈け出した俺たちを守るように傭兵がすぐ横を行く。すぐに俺の息はあがって心臓がばくばくいったが、ジェンスと傭兵は人でごったがえしたシリンガの街区を抜けて、さらに走っていく。
「ここまで来ればいいだろう。おまえ、大丈夫か?」
「だ、大丈夫……」
やっと立ち止まって、ハァハァ息をつきながら顔をあげると、そこは静かな路地裏だった。
ジェンスが俺のそばにかがんで背中をさすってくれている。顔をあげるとジェンスが心配そうにみつめていて、俺はあわてて立ち上がった。
傭兵は壁にもたれて俺たちを見ている。眼光鋭いまなざしと視線をあわせると、傭兵はにやりと唇のはしをあげた。
「細っこいのによくがんばったな。だがな、もっと走れたほうがいいぞ」
「う、うん……」
俺は服についた埃をはたきおとした。神官や侍者の服は真っ白でもなぜかあまり汚れがつかない。雨のしみははじかれ、土埃は軽く叩けば落ちる。
「ありがとう、チェリ」とジェンスがいった。
「ガキだけでシリンガをうろつくからだ。気をつけろ」
「ごめん」
「ったく、ライオネラの中で騒動を起こしたら団長にしぼられるってのによ。ま、あの程度なら騒動ともいえないけどな」
「チェリ、あの男……」
「話はあとだ。エオリンに帰るぞ。それはそうとおまえ、ジェンスの恩人だろう」
傭兵がまた俺の方を向いた。
「髪と服のせいで俺としたことが最初気づかなかった。ユーリといったな。こんな形で悪いが礼をいわせてくれ」
うってかわって真面目な表情でいわれて、俺は少々とまどった。俺みたいなガキにこんなにあらたまって礼をいってくれるなんて。
「あ、いや……あれは俺がやったっていうか、その」
「俺はハッチェリ。ジェンスは俺の弟分――息子っていうほどの年じゃないからな。今後、何か困ったことがあればいってくれ。エオリンはかならず恩を返す」
「あ、うん……だけど、俺はほんとに」
俺はまごまごと口の中で言葉をこねくりまわしたが、ハッチェリは重々しくうなずいた。
「おまえが何をやったにせよ、あのときあそこにいてくれてよかったってことだ」
傭兵はジェンスの肩をバシッと叩き、ジェンスはちょっとだけ照れくさそうな顔をした。
弟分――家族も同然ってことか。だから……。
なぜか胸の奥を空虚な風が吹き抜けていったような気分になった。エオリンの話を聞いたときからうすうす感じていたが、ジェンスの周りにいるのはちゃんとした人ばかりみたいだ。
「あの、さっきの男はなんだったんだ?」
俺は意を決してふたりにたずねた。
「俺に絡んできたけど、あいつが狙ってたのはジェンスなんだろう? なぜ?」
「……さあ。俺にはさっぱり」
「エオリンに喧嘩を売りたい連中だろう。ま、どうってことはない」
ジェンスはかすかに肩をすぼめ、困ったように目尻をさげたが、ハッチェリの答えはきっぱりしていた。
彼があのときちょうどあらわれたのは、彼もシリンガをうろうろしていたからだという。傭兵とその弟分。二人の前にいると、俺ひとりだけがひ弱でみすぼらしい気がして居心地が悪くなる。
「あの、俺、もう行くよ。大神官の行列がおわるまでに丘にもどらなくちゃいけない」
「ユーリ、そこまで送る――」
ジェンスの声がきこえたが、俺はもう歩きはじめていて、後ろをふりむかなかった。そのまま小走りに路地裏から通りに出ると、一瞬自分のいるところがわからなくなったが、世界樹がそびえる方向をみたとたん、この通りを前に歩いたことがあるのを思い出した。
俺は今度こそ本気で走り出した。急がなくてはならないのはほんとうのことだ。フィシスは俺が丘のどこかにいると思っているから、こんなところをうろうろしているとバレたらとっちめられてしまう。
しばらくすると息があがってきたので、俺は走るのをやめてせかせかと急ぎ足で歩いた。大男に絡まれてからのことがさっと頭の中をよぎる。あの傭兵、いったいどれだけ鍛えたら、自分より大きな男をあんなふうに投げ飛ばしたりできるんだろう。
どうでもいいことを考えていれば、胸の奥をちくちく刺す嫌な気分を無視できる。
俺はただ、ジェンスがすこしうらやましくなってしまっただけなのだ。あの傭兵は「エオリンに帰るぞ」とこともなげにいった。ジェンスには帰る場所がある。
俺が丘の向こう側――樹領に戻ったとき、大神官の行列はちょうど神殿に到着したらしい。
周囲にはたくさんの人がいて、いつも以上にざわざわしていた。神官たちが世界樹をみはるかすテラスへ移り、行列がばらばらになると、大神官の輿をかついでいた連中がテラスの見えるところへ我先にと走っていく。そのなかには俺が顔を知っている下働きもいた。いつもは神官の儀式に無関心なのに、大神官は特別なのだ。
やっぱりのぞいてみたい気分に駆られたが、儀式にはフィシスもいるからきっとバレる。それにフィシスは儀式がおわるといつも、部屋に戻って体を洗い、軽い食事をとる習慣だった。厨房で何かもらって用意しておけば、俺が街をふらふらしていたなんて思わないだろう。
そう一度は考えたのだが、俺はすぐに建物に入らず、暇なやつがみんな神殿を囲んでいる今のうちに、すこし前から気になっていた道を調べることにした。たぶん丘の東側、聖なる森まで通じている道なのだが、樹領で働く者たちはけっして通ろうとしない。というより、そんな道なんかそこにないみたいに目をそらすから、前から不思議に思っていたのだ。
行ってみるとそこはやっぱり、樹領をめぐる他の道と特段変わったところはなかった。つまり、両側には石積みの低い塀が続いていて、足元は真っ白のモルタルで塗り固められている。緑の畑や果樹園のあいだを通る道も同じように白く塗られていて、大神殿のテラスから見下ろすとたしかにきれいだった。
ゆるやかに曲がりくねった小道は聖なる森の黒い影の方へ続いていた。ちょっとだけ行ってみるつもりで俺はそこを歩きはじめた。