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第11章 ユーリ――傾いた石像(後編)

 ジェンスに最初に会った日からまだひと月も経っていないのに、あのときのことがずいぶん遠く感じる。あのころの俺はヘルレアサの丘のことなんかろくに知らなかった。あの日はとにかく大神殿を抜け出し、やみくもに歩くうちにまぎれこんだ真っ暗な木立のあいだをひたすら下っていっただけだった。下りていけばどうにかなると思っていたから。


 でも、あのとき首尾よく抜け出せたのはどうも、幸運がいくつか重なっただけだった気がする。というのも、今は自分がどこから聖なる森に入りこんだのかがさっぱりわからないのだ。


 フィシスのような神官たちは木立ちのあいだを歩いたりしない。フィシスは前に、大神殿の地下には聖なる森の地面の下を通り、東門の近くに出る通路があると教えてくれた。通路には鍵がかかっていて、フィシスはいつも首に下げている。


 ひょっとしたらあの日俺が歩いたのはこの道だったのかも――でもそんな想像は、道がとつぜん行き止まりになったことで破られた。

「なんだ」

 俺は思わずつぶやいた。

「どこにも通じていないから、誰も見向きもしなかったのか」


 道の左右に続いていた低い石塀がだんだん高くなり、正面でつながって袋小路の壁になっている。俺はひきかえそうとしたが、壁のつくる影がちらちらとまたたいた気がしたので、気を変えて近寄っていった。すると石壁と平行にもうひとつ壁が立っていて――ぴったり重なっていたから正面からは行き止まりのように見えたのだ――二枚の壁がつくった短い通路の先に下へ降りる石段がみえた。


 はやく戻るべきだとわかっているのに、好奇心がうずくのを止められない。ちょっと見てみるだけ――自分にそういいきかせて、俺はさっと通路をわたり、短い石段を下りた。


 そこは朽ちた庭のようだった。丸くくぼんだ地形を細い若木がぐるりと囲んでいて、真ん中に灰色の石像が斜めに立っている。ここを隠していた石壁の下半分には腰掛になっていて、その下をのぞくと乾いていた。


 大神殿の近くにこんな場所があるなんて思いもしなかった。フィシスは樹領の見回りといって俺をあちこち連れ回したが、いつもどこかに人の目があったし、樹領では枝や落ちた葉も「恵み」といって拾い集める。でもここには枯れ枝や落ち葉が散らばっているから、ずっと誰も足を踏み入れていないのだろう。


 俺はくぼみの真ん中に立っている傾いた石像をそっと触った。日が射しているのに凍るような冷たさだ。

 驚いて手をひっこめ、石の腰掛けまであとずさる。その下をのぞきこんで、ここなら夜露もかからないし、俺がものを隠してもみつからないだろうと思った。逃亡のために必要な服や当座の食料をどうするか悩んでいたのだ。


 俺はちょうどいい場所をみつけたんじゃないか?

 でも、思いがけない発見に喜んでばかりもいられなかった。今度こそ戻らなければ。


 俺は石段を駆け上り、大神殿の方へ、来た道を急ぎ足でたどった。だんだんフィシスが俺を探しているんじゃないかという気がして小走りになり、しまいに本気で走りだしたが、いらない心配だった。大神殿は人でごったがえしていた。今日の儀式はいつもよりずっと長く、俺が大神殿にたどりついたときにやっと終わったらしい。


 ほっとして俺は厨房をめざした。命令される前にフィシスの食事を用意しておこうと思ったのだ。長い回廊を歩いていると、向かいからやってきた下級神官が「そこの侍者」と俺を呼びとめた。

「これをギラファティ様の寝所へ」


 神官は青い水瓶と盃をのせた盆を俺に押しつけ「早く行きなさい」ときつい声を出した。

「ギラファティ様が戻る前にお仕度をすませておくようにといっただろう!」

「えっ……その」


 でも彼は俺の反応などみてはいなかった。すぐさまくるりときびすをかえし、今度はちょうどそこにいた下働きに何かいいつけたと思うと、肩をそびやかして回廊を先に行ってしまう。

 困った、どうしよう。


 盆の水瓶を運ぶくらいどうってことないが、俺はギラファティ様、つまり大神官の居室がどこにあるのか知らない。それにフィシスは今朝、俺にこういったのだ。


(本日、大神官が船で帰還される。ギラファティ殿はライオネラを巡り祝福をさずけてから大神殿へ入り、儀式を執り行うが、おまえはわたしについてきてはならない。大神官殿の周囲をうろうろしないように)


 とはいえあの神官にこれをつき返すわけにもいかない。樹領で侍者が神官に口答えをするのはふつう許されていなかった。フィシスは俺があれこれ聞くのを許すときもあったが、そのたびにこれが特別なのだとつけくわえるのを忘れなかった。

 とすれば――大神官の居室を知っている者をみつけて、押しつけなくては。こんなに人がいるのだから、どうにかなるかも。


 俺はきょろきょろあたりをみまわして、知った顔がいないか探した。でも、すれちがう誰も彼もが忙しそうにしていて、さもなければ俺みたいに両手に何か持っている。俺は最悪のタイミングで大神殿に戻ってきたのかもしれない。

 そんな中でやっと俺に注意を向けた侍者に「ギラファティ様のお部屋は?」とたずねたら、場所は教えてくれたものの、仕事を押しつけることはできなかった。あっという間に他の神官がそいつをかっさらってしまったから。


 しょうがない。俺は覚悟をきめた。部屋の場所はわかったし、運んだら急いで戻ろう。





 大神官の居室はフィシスの部屋と同じ階だったが、位置は真反対だった。フィシスの部屋の周辺は俺以外の人間はあまり近寄らないのに、こっちは下級神官から下働きまでバタバタと忙しそうにしている。それに大神官の居室はひとつではなかった。立派な家具や掛け布で覆われた部屋がいくつも続いていて、寝所はいちばん奥の部屋だった。


 俺はフィシスの部屋に浴室がついているのをすごいと思っていたのに、ギラファティは「大神官」というだけあって、もっと特別扱いされているのだ。俺が運んだ水瓶の中身も「ギラファティ様がお好みの特別の調製」なのだと、寝所にいた召使いにきかされた。なんだかそいつは俺のことを妙な目つきでみていた気がしたけど、背中の緑十字のせいだろうか。

 それでも、とにかく俺は仕事をやりおえた。早くここを出ていかなくては。


 ――と思ったのに、俺はやっぱりタイミングが悪かった。大神官の居室を一歩出たとたん、広い廊下をこっちへ向かってくる行列に出くわしてしまった。大神官その人を囲む列だというのは、召使たちがさっと左右に分かれたのをみてわかった。


 中央をいく大神官は神官の白い長衣に虹の七色をした帯を締めている。輿の上では虹の七色のベールで顔を隠していたが、今も俺にみえたのは真っ白の髪だけだ。俺はあわてて壁際に寄った。


「つつがなくお戻りになられてよろしゅうございました。大神官が不在の神殿は葉が落ちた木のようでさみしいものでございます」

 すこし甲高い声でそういったのは俺も顔を覚えている高位の神官で、フィシスがそのうしろにいた。気づかれていないことを祈りながら、俺はすばやく膝をついて頭を下げる。履物が床をこする音を聞きながら、神官服の長い裾が通りすぎるのを待った。


「世辞はいらぬぞ、ノリン。フィシスの顔をみるといい。おまえとは真逆だ」

 大神官の声は太く力強い。フィシスの名が出たので、俺はすこし緊張する。

「いたしかたありますまい。フィシス殿はこの神殿で猊下につぐ重責を負っておられます。我らの一員となる修習生をみておられますから」

「たしかに。フィシス、留守のあいだに……」

 ふいにその声が止まった。

「そこの者は侍者か。その髪色、見覚えがないが」


 虹色の帯が俺の前で揺れている。大神官だ。まさか、今のは俺のこと?


 迷ったそのとき、フィシスがいった。

「その者はわたしの侍者です」

「フィシスの? 珍しいこともあるものだな。顔をみたい」

「ユーリ」


 フィシスの冷たい声が響いた。俺はゆっくり頭をあげる。白髪の大神官は想像よりもずっと若くみえたが、肌は長いあいだ日を浴びていないような色だ。けむったような灰色の目がさっと俺を検分するようにみて、すぐにそれる。


「出身はどこだね?」

「シャロヴィ、父はイスキグアの者です。年長のうえ覚醒は半端ゆえ他の修習生と共におけず、わたしの預かりとしました」


 フィシスが平坦な声でいった。俺はまた顔をふせ、ぎゅっと目をつぶったまま早く行ってくれと念じた。ありがたいことに甲高い声が割りこんできた。

「……ところで猊下、ヴィプテ家の後継騒動は耳に入れられましたか?」

 この神官は、大神官が他の人間に注目するのが嫌でたまらないらしい。


 白い衣の一行が居室へ入り、扉が閉まるまで、俺はその場で頭をたれていた。




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