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第13章 ユーリ――聖域の意味

「よりにもよってなぜあんなところにいた、ユーリ」


 紫の目に睨まれながら俺は壁の前に突っ立っていた。フィシスの部屋の、丸いガラスの窓のすぐ横に。

 フィシスは俺のすぐ前に立ち、むちゃくちゃ怒っていた。胸の前で組んだ腕も顔もぴくりとも動かないのに、刃物をつきつけられているような物騒な雰囲気だ。

「わたしが戻るまでここにいればよかったのに、こんな簡単なことがなぜできない」


 俺は思わず肩をすくめた。尖ったナイフみたいなフィシスの声が怖かったのではなく、どうしてそんなに怒っているのか不思議だったから。シャロヴィにいたときは毎日のように誰かの(主として村長の)怒りを買っていたのもあって、怒鳴られたりしても怖いとは思わない。だけどフィシスは村長たちみたいに、わけもなく怒ることはしないとわかっていた。だから実をいうとすっかりとまどっていた。


 俺は何もヘマをしたわけじゃない。フィシスのいいつけを守れなかったのはその通りだけど、たまたまそうなってしまっただけで、大神官の前で粗相もしていない。

「なぜって……儀式が終わったと聞いたから、フィシスが戻る前に用意しておきたかったんだ。ほら、食事とか湯あみとか……儀式のあとはいつも、すごく疲れているじゃないか」


 フィシスは驚いたように眉をあげたが、すぐもとの無表情に戻った。

「だから? ギラファティの居室は正反対の翼にある。おまえは手際がいいからこの部屋の用意などすぐにできたはず。わたしが大神官の目に触れるなといったから、わざとやったのでは?」

「わざと? そんなことない!」

「それにおまえはずっとここにいたわけでもあるまい。わたしが目を離している時にあちこちうろついていることくらい、よくわかって――」


 ふいにフィシスは組んでいた腕をほどくと、両手で口を覆って前のめりになった。俺はあわてて彼を支えようとしたが、神官服の背中に触れようとした瞬間、フィシスは体をねじって俺の手を避けた。

「……水は」


 ほら、いわんこっちゃないと俺は内心思ったが、黙って水差しを取りに行った。フィシスは飾り気のない椅子に座り、コップの水をごくごく飲み干した。あらためて見回すと、この部屋は宮殿みたいにきらびやかな大神官の居室とはくらべようがないほど、簡素でがらんとしていた。


「ユーリ、今日は何をしていた? まさかと思うが、丘の下で大神官の行列を追いかけてはいないな?」

「まさか、そんなことしてない!」

 俺はすぐそう答えたものの、フィシスはまだ具合が悪そうで、そのせいか妙にうしろめたい気分になった。


「ま、街には行ったけど……行列の話はジェンスに聞いただけで――」

 ハッとして口をつぐんだが、フィシスはじろりと俺をみただけだ。 

「ジェンス。なるほど」

「……丘に来てたんだ。それで……」

 フィシスはかすかに眉をあげ、小さく息をついた。


「まあいい。彼は息災だったか」

「あ、ああ……」

「あの者についてはわたしも気がかりだった。ふつうの人間はライオネラの門前で魔物に襲われたりしないものだ。あれから異常がなければいいが」

「それはきっと大丈夫だけど……ただジェンスと歩いていたら、妙な男に絡まれた。最初は俺が目当てかと思ったけど、そいつはジェンスに用があるといって追いかけてきて――でも、ジェンスの兄貴分が近くにいて追い払ってくれたから、問題ない」

「兄貴分? エオリンの傭兵か」

「ああ。エオリンに喧嘩を売りたいんだろうって……」

「ふむ。エオリンか」


 フィシスは俺から目をそらし、丸い窓に目を向けた。

「ヴィプテ家の者がエオリンを訪ねたという情報がある。そのへんのごろつきが難癖をつけているだけならいいが」

「ヴィプテ家?」

「知らないか。自治都市ラコダスの評議会を支配する名家のひとつだ」

 ヴィプテ家? ついさっき聞いたような……?


(……ところで猊下、ヴィプテ家の後継騒動は耳に入れられましたか?)


「……さっき、大神官と一緒にいた神官がその話をしていた」

 俺が答えるとフィシスはかすかに目を細めた。


「おまえは耳がいいな。それによく覚えている。いつもそうやって聞き耳を立てているのか? 樹領や街のいたるところで」


 フィシスはもう怒ってはいなかったが、平坦な口調からは褒められているのかけなされているのかさっぱりわからない。俺はあいまいに首を振った。

「人の話をちゃんと聞いていないと……どんな目にあうかわからないから」

 フィシスは小さくうなずいた。

「なるほどな。神官もそんなふうに、さまざまな声に耳をそばだてていなくてはならない。地方の神殿に赴任したり、使命を受けて旅をするときは特に」


 それは意外な答えだった。神官っていうのは神殿に閉じこもっているわけじゃないのか。


「……神官も旅をする?」

「双翼が揃っていれば。わたしたちもかつては大神殿の使命をさずかり、あちこちを旅して回った」

「双翼って? 神官は神殿のある土地から離れないものだと思ってた」

 俺は重ねて聞き返したが、フィシスは遠い目をして窓の向こうをみつめただけだ。唇がかすかにあがって、俺はびっくりした。フィシスもこんな風に笑うことがあるのか。


「……で、この神殿にいる時もいろいろな話を集めているから、エオリンのことも知ってる……」

「もちろんだ。大神殿には帝国じゅうから人々が集い、さまざまな話をする。有力者の動向を知るのも我々の仕事のひとつだ。ヴィプテ家は先月からもめている――亡くなった当主の遺言から、継承権を持つ隠し子がいるとわかったからだ。それにエオリンは小さくても歴史のある傭兵団だ。過去にかかわりがあっても何の不思議もない」


 ますます意外な気持ちになって、俺は思わずぽつりともらした。

「……神殿や神官はそんなこと、興味がないと思ってた。俗世なんか関係ない暮らしをするんだって」

 フィシスは俺に向き直ると、かすかに目もとをゆるめた。


「わたしたちは世界樹とともにあり、人々と世界樹をつなぐ存在だ。帝国は土地を統べ、ラコダスのような自治都市は商業のかなめとなるが、大神殿は人々の心を守らなければならない」

 白い手がすっとあがって、窓の外を指さす。

「すべてはつながっているのだ。人心はさまざまなきっかけで乱れる。帝国や都市の統治が不安定になると地は乱れ、世界樹も影響を受ける。ヘルレアサの丘は聖域であり、避難所にもなる」

「避難所?」

「ここでは帝国の憲兵も無断では動けない。人が人を害することも……」

 そういいながら、フィシスはなぜか唇をゆがませる。


「大神殿はときに、帝国や自治都市の問題を調停することもある。貴族の子弟を神殿兵として迎え入れるのもときおりあることだ。帝国貴族の血の誓いから自由になるために、現世の権利を放棄して神殿に誓いを立てるのだ」

「……ふうん」


〈根〉の神殿は俺が思っていたよりずっといろんな物事にかかわっているのか。自分がろくに物を知らないのはわかっていたが、俺はちょっと恥ずかしくなって、フィシスの視線を避けようと下を向いた。


「……それはともかく、ユーリ。わざとではないとしても、おまえは今日わたしの言いつけにそむいた。あとで罰を考えるが、今後も大神官の目を引くようなことはしないように。万が一問題が起きたとき、わたしではおまえを守れない。おまえは誓いを立てていない……」

 フィシスの声が尻すぼみになる。問題? 大神官は〈根〉の神殿すべての頂点に立つ人だ。そんな偉い人が俺の何を気にするというんだろう?

「とにかくわたしにそむかないことだ。わかったな。湯あみと食事のあとですこし休む。仕度ができたら呼べ」


 これ以上怒られないのならなんでもいいや、という気分で俺はうなずいた。フィシスは小さくため息をついたが、俺が動きはじめると椅子の背にもたれ、疲れたように目を閉じてしまった。




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