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第14章 ジェンス――勇気と傲慢(前編)

 ――自治都市ラコダス。


 帝都サウロが帝国の心臓なら、ラコダスはその喉もとに輝く小さな宝石。評議会を支配する名家は細工師や技術者を囲いこみ、流れこむ富を繊細な芸術品に変えて帝都へ送り出す。都市を守る武骨な壁にまで華美な彫刻がほどこされ、名家の貴人が作り出す流行は皇帝の寵姫にも喜ばれる。


 帝都サウロの貴族は広壮な庭園に囲まれた屋敷で暮らしているが、ラコダスの貴人の邸宅は庶民が歩くにぎやかな通りに面している。しかし、ぶあつい壁の内側へ一歩足をふみいれると、外の喧騒は存在しないかのように消えてしまうのだった。


 繊細な金銀細工や絵画で飾られた部屋べやの中心にあるのは、招き入れられた者しか見ることのできない庭園である。迷路のような小径がめぐらされ、アーチに薔薇がからみつき、中央にはヘルレアサの聖なる森から運ばれた木が根を張っている。植えられたときは幼児とおなじくらいの高さしかなかったが、いまや涼しい木陰をつくるほど枝葉をしげらせ、邸宅を魔物から守っている。


 これらの庭園は上空を舞う鳥たちの目に、ブローチの真ん中できらめく宝石のようにみえるかもしれない。

 その宝石のひとつに一羽の鳥が舞い下りていく。

 木陰のベンチに真紅のベールをかぶった女が座っている。


 生まれてから数えるほどしか外の街路に出たことのない女だ。ラコダスの名家では珍しいことではない。彼女たちにとって「外」とは邸宅の庭園であり、他家へ嫁しても別の庭園が「外」になるだけ。彼女の顔をみることができるのは一族が許した者だけ。翼あるものだけがひとしれず空から舞い降りる。

 真紅のベールは純潔をあらわすもの。


 ところが――幾重ものレースで隠されたその身には、新たな命が宿っている。



   *



「エオーラ様は亡くなったきみの伯父上、ティターノ様の異母妹だ。長いあいだ妊娠を隠し、侍女にも気づかれないようにふるまわれていた。臨月になっても知っていたのは庭師の妻ひとりだったという。エオーラ様は産んだ子を庭師夫婦の子として育てたいと思っていたようだ。だが、庭師の妻はともかく夫は秘密に耐えられなかった。当時のヴィプテ家の当主――エオーラ様の祖父、ファタリス様は激怒し、ティターノ様に赤子の処遇を任せた」


 暗いテントの中で、ジェンスはヴィプテ家の使い、フィオミアの話を聞いている。


「エオーラ様はお相手――きみの父親が誰なのか、どのように知りあったのか、ファタリス様が迫っても明かそうとせず、産褥の床で亡くなられた。当主はティターノ様に ”赤子をラコダスには置かぬこと” だけを命じ、あとは知らぬといわれた。ティターノ様は妹の忘れ形見を手放したくなかったが、結局ラコダスの外にある〈根〉の神殿の孤児院に託すことにした――」


 これは自分の誕生にかかわる話だ、とジェンスは思う。それなのにまるで他人ごと、物語のように感じるのはどういうわけだろう。


「ところが、赤ん坊を連れた密使が暴漢に襲われ……そこへ助けに入ったのが」

 フィオミアは腕組みをして座るクエンスに視線を移す。

「我々ふたりというわけだ」

 団長がつぶやくようにいい、ジェンスの養父、トラクスと目を見かわした。





 エオーラが出産する数年前から、ヴィプテ家では不幸が続いていた。

 ファタリスはエオーラの父を継嗣に定めていたが、帝都を訪問した帰りに長男と共に魔物に襲われて亡くなり、虚弱だったエオーラの母はその報をうけた衝撃で病に倒れ、夫のあとを追うように亡くなってしまった。


 当主のファタリスは残った男孫ふたり――次男のジョセフォアと三男のティターノ、どちらを継嗣にするかで迷っていた。継嗣は評議会の席を得て、ラコダスで相当な権力を手にする。慣例ではジョセフォアを継嗣にするところだが、あいにく次男は能力や人柄でティターノにずっと劣っていたし、ティターノは裕福な商家の娘と結婚したばかりで、仲睦まじい夫婦として世間で評判だった。

 むろんジョセフォアはこの状況が気に入らず、何とかして自分を継嗣にさせようと祖父に働きかけていた。エオーラが子を産んだのはそんなときだったのである。


「密使を襲ったのはジョセフォア様の差し金だとティターノ様はお考えだった。あの方はファタリス様とティターノ様のあいだに密約を疑っておられた。ティターノ様はクエンス殿とトラクス殿にきみの保護を正式に依頼し、エオリンはラコダスを離れた」


 ファラミアが軽く息をついだとき、トラクスが立ち上がった。手に持っていた小さな布包みをジェンスの前に無造作におく。

「赤ん坊のおまえが着ていたものだ」


 ジェンスは黙って包みをひらき、魔除けのしるしが刺繍された産着を広げた。養父のトラクスはラコダスで自分を拾ったというのは昔から聞いている。実の両親について想像したことがなかったわけではないが、こんなことだとは思いもしなかった。突然すぎて実感がわかない。


「その後、ヴィプテ家を継いだのはティターノ様だった。ところがティターノ様にはお子ができなかった。奥方の妊娠を妨げる陰謀が判明したのち、ティターノ様はエオリンに使いを送り、きみを実子と認める書類を作った。ヴィプテ家の継承権を与えるためだ」

「……は」


 ジェンスの唇はしらずしらずのうちに開いて、いささか間の抜けた声をもらしていた。

「……なぜ?」

「きみはエオーラ様の息子だからだ。ほんとうはティターノ様は、自分が生きているうちにきみをラコダスに呼び寄せ、継嗣とするつもりだった。ご本人は間に合わなかったが、私はティターノ様の遺志をついで、きみを迎えにきた」


 フィオミアは冗談をいっているようにはみえないし、クエンスもトラクスも真顔である。しかしジェンスは呆然としていた。


「信じられないかね?」フィオミアが畳みかけるようにいった。

「ティターノ様はほんとうにそう考えていたのだよ。きみはトラクス殿に会計を教えらえている。地理にも明るく、用兵の基礎もある。ラコダスの人間は実際的なのだ。われわれは通商に重きをおき、技能を頼みにする」


 ジェンスは広げた産着をみつめ、苦手な計算にしぶしぶ取り組んだ毎日を思い起こした。まさかこのために?

「それにもうひとつ重要なことがある。ヴィプテ家の継承権ゆえにきみは狙われているのだ。ジョセフォア派はティターノ様の遺志をなかったことにするために人を雇った。その中には魔導士もいる。この前きみを襲った魔物は彼が差し向けたのだ」


 魔導士。ジェンスは息をのんだ。 

 魔物を追い、あるいは浄化して人々に益するのは神官か退魔師だが、魔導士は悪しきものである。邪悪な目的のために魔物を使い、人を呪って報酬を得る。落ちぶれた退魔師の行きつく先とも噂される。

 フィオミアの話はまだ続いている。


「それ以外にもきみを狙う者はいる。さっき話を聞いたが、今日街できみを連れていこうとした者は、おそらくラコダスの評議会と関係がある。気を悪くしないでほしいが、今のきみは遊戯盤の駒のようなものと思われているのだ。盤から落としてなかったことにしたい者たちや、いち早く手に入れて自分のために使いたいと思っている者たち……」

 フィオミアの口調はやや懇願の響きをおびた。


「ジェンス殿。きみがまだ生きているのは世界樹の御意思だ。私と共にラコダスへ帰り、ティターノ様の遺志を継いでくれ。ヴィプテ家の中庭にはヘルレアサの丘から持ち帰った聖なる木が植えられている。そこには魔物は近寄れない」


 ジェンスは薄暗いテントの中を見回した。フィオミアはジェンスの返事を待ちかまえ、団長は考えこむように腕を組んだまま、トラクスはテーブルに広げた赤ん坊の産着をみつめている。


「きみが私と共に来るなら、エオリンがヴィプテ家の専属になることもありうる。少なくともラコダスに戻るまでの護衛を依頼することにはなる――」


「……すこし考えたい」

 やっとジェンスは答えた。フィオミアは唖然とした顔つきになった。

「考える? 何を?」

 ジェンスはいきなり立ち上がった。


「俺は……これまで一度も、想像もしたことがなかったんだ。自分はただの孤児だと思っていたから」

「ジェンス」

 トラクスが低い声で呼んだが、ジェンスはくるりときびすを返した。

「ジェンス!」




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