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第15章 ユーリ――闇の亀裂(前編)

 次の日、朝の祈りがおわったあと、俺はフィシスについて大神殿に付属する聖療院へ行った。

 聖療院はヘルレアサの丘をめざす多くの巡礼にとって、祈りの場所である石のテラスとおなじくらい重要な施設だ。世界樹の枝葉や樹液を使った薬はここにくればタダでもらえ、神医官が各地の神殿や治療師があきらめた病や怪我の後遺症を診る。

「神医官」は治癒に関する異能をもつ神官の称号で、実はフィシスも神医官だ。高位の神官は称号をいくつも持っていて、こういった施設の監督や相談係を兼ねている。


「わたしは今日、ギラファティ殿と会合がある。おまえはここで奉仕していなさい。何度も来たからもう慣れているだろう。わたしの昼食の心配はしなくていい」

 俺は了解のしるしにうなずき、フィシスは巡礼を案内している下級神官を手招きした。

「リーズ、わたしは行かなくてはならない。ユーリを使ってくれ」


 リーズはまだ若い神官で、俺より二、三歳上にしか見えない。大神殿で俺が出会った神官の中では、たぶんいちばん親切で心優しい人間に思える。

「それじゃユーリ、足りないものを運んできてもらえるかな。前も頼んだからわかるね?」

「はい」


 聖療院は大神殿の南東側にあり、高い壁の上方に丸い窓がずらりと並んでいる。祈りを捧げる石のテラスのような壮大な眺めはないが、そのかわり回廊に囲まれた広い中庭に面している。

 俺は回廊を行ったり来たりして、清潔な布の束や瓶や、汚れ物を入れた籠を運んだ。中庭の中央に据えられた石の水盤には聖水――世界樹の枝葉を浸した水に神官が祈りを捧げたもの――が湧き出し、水路に流れ落ちている。


 治療を終えた人々は瓶や皮袋に聖水を入れて持ち帰っていたし、聖水めあてに聖療院へ来る人も大勢いて、中庭の隅には水を汲むのを待つ人の列ができていた。回廊を歩きながら俺は何気なくそっちをみて、ハッとして立ち止まった。

「ジェンス?」

 どうしてジェンスがここに?

 昨日街で起きたことが頭をよぎった。まさかあのあと……。

 長い黒髪を頭の上で結い上げた女の人がジェンスに話しかけている。ジェンスは答えながら顔をかたむけた。ひたいに巻かれた白い包帯がみえた。

 俺は両手に籠を抱え、いそいで回廊を走り抜けた。汚れ物置き場に籠をつっこんで、中庭に通じる扉をくぐる。

「ジェンス!」

 黒髪の女の人とジェンス、ふたり同時に俺の方を向いた。

「どうしたんだ? その顔」

 俺はいそいでそっちへ駆け寄った。ジェンスは一瞬ためらったようにみえたが、俺がすぐ前に行くと早口で「ちょっとヘマをして」といった。

 大丈夫だろうか。俺は心配になった。昨日会ったときと雰囲気がちがう。怪我のせいだろうか?

「ヘマって……あのね」

 隣にいる黒髪の女の人が何かいいかけたのをやめて、真顔で俺の方を見た。背丈は俺とおなじくらいで、だから目線もちょうどおなじ。顔の両側に垂らした髪の房がくるりとカールしている。

「そっか、あんたが神殿のユーリ!」

「あ、うん。そうだけど……」

 答えると急にニコニコして、ぶつぶつ何かつぶやいている。


「なるほど。チェリが興奮していたわけだ」

「……何の話?」

「あっごめん。失礼しちゃって」

 女の人は俺に正面から目をあわせた。

「あたしはユティラ。エオリンの治療師よ」


 治療師。やっと合点がいった。

「それでジェンスとここに? いったいどうしたんだ。あれからまた街で何かあったのか?」

「稽古中にかすったんだ。うっかりしてて」

 ジェンスがすかさず答えて、包帯を隠すように片腕を上げる。

「だけど……」

「包帯が大げさなんだ。たいしたことない」


 ジェンスはまじめな顔でいったが、ユティラは目をみひらいてあきれ顔をした。

「こらジェンス。大げさですって? あたしの処置がご不満?」

「あ、いやその……そんなつもりじゃ」

「たしかに傷は大騒ぎするほどのものじゃないけどね。あたしは薬を補充に来たの。聖水はおまけだけど、これで洗うとたいていの傷は治りが早くなるのよ。で、ジェンスは荷物持ち」

「ああ、それで……」

 俺は水盤にならぶ行列をみわたした。

「ここはいつも混むんだ。しばらく待つことになるかも」

「ユーリは今日、ずっとここに?」

 ジェンスがボソッとたずねた。

「うん、単なる雑用係だけどね」

「そうか」


 声に張りがなくて、やっぱり元気がない。怪我はたいしたことがなくても失敗して落ちこんでいるのか。それとも他にも何かあったのか。


「ジェンス」

 いきなりユティラがジェンスの肩をつついた。

「聖水はあたしがもらっとくから、どこかでゆっくり話したら?」

「え、でも……」

「ねえ、ユーリは抜けられないの? ジェンスは気が弱くなってるのよ」


 俺は周囲を見回した。リーズは聖療院の中にいて、ここからは姿が見えない。運ぶものはだいたい終わったし、今日はそんなに忙しそうでもないし、聖療院で働く侍者は俺以外にもいる。ちょっとのあいだいなくなったところできっと誰も気づかない。

「うん、大丈夫だ。ジェンス、行かないか?」

「どこに?」

「邪魔されない場所をみつけたんだ」

「本当にいいのか?」

「大丈夫だって」

 俺はジェンスの手を引いて列から連れ出そうとした。ユティラがジェンスの肩をつつく。

「ほら、行ってきな」

 彼女の黒い目はキラキラして、なぜか笑いをこらえているような顔だ。

「ジェンス、大神殿の前で会いましょ。クエンスともそこで落ちあうから。ここじゃ何も心配いらないよ」


 ジェンスはうなずき、俺のあとについて中庭を抜けた。ユティラが顔の横で指をひらひらさせている。いい人のように思えるけど「ここじゃ何も心配いらない」ってどういうことだろう?

 回廊に出ると、俺はジェンスの横を歩きながら早口でいった。


「ほら、前に樹領を案内するっていったのに、俺が熱出して倒れてしまっただろう? おまえがまた来ることがあればその時に案内してやれって、フィシスがいってたからさ」

 正確にはこの通りじゃないが、ジェンスはここにいるのだし、すこし話がしたいだけだし、と俺は自分にいいわけした。ジェンスがこんな怪我をして、元気がないとなればなおさらだ。


 それに俺は、昨日ろくにあいさつもせず去ってしまった自分をすこし恥ずかしく思っていた。後悔というほど大げさなことじゃないけど、ジェンスが兄貴分の傭兵と家族のように見えたのを羨ましく思ったなんて、子供じみている。俺にもジェンスにも親がいないのは変わらないのに。

「こっち」


 聖療院は南東側だから、聖なる森から遠くない。俺は昨日みつけたあの場所――傾いた石像のある庭をジェンスに見せたかった。ライオネラからサウロに行くための計画も思いついたばかりだけど、こんな話はジェンス以外にはできない。


 ひたいの怪我はほんとうにたいしたことがないのか、ジェンスはいつものように素早かった。ひとまわり体格がいいのもあって、すぐ俺を追い越しそうになる。するとジェンスは歩幅をちょっと狭めて俺の横にならんだ。

 どうということもない動作なのに胸の奥がふわっと軽くなる。こうやって横にいてくれる友だちなんて、俺にはこれまでひとりもいなかった。




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