ジェンスは俺が聖なる森の方向へ向かうと怪訝な顔になった。
「あの森に行くのか?」
「いや。ジェンス、その怪我ほんとに平気なのか? あれからまたあの男に喧嘩売られたりしてないよな?」
「そんなことはないんだ。ただ……」
ジェンスはかすかに顔をしかめて、話すのを迷っているようだった。
「俺の生みの親がわかった」
「え? すごいじゃないか。いったいどこの誰だよ」
あの場所に通じる袋小路はすぐそこだ。俺がずんずん歩いていくと、ジェンスはさっきよりもっと怪訝な顔になった。
「行き止まりに見えるだろ? だけどほんとはちがうんだ」
俺は壁の裏側へ行こうとしたが、ジェンスはそこに立ち止まっている。
「来いよ、こっちだ」
俺はジェンスの右手をつかみ、二枚の壁に挟まれた通路に足を踏み入れようとした。ところがジェンスは頑として動こうとしない。いったいどうしたのかと思いながら一歩先に進んだとたん、耳の奥でメリッと音がして、まぶたの裏で火花が散った。
俺は反射的にあとずさったが、別に何も起きちゃいなかった。村で魔物に襲われてから、たまに前触れなく変なめまいが起きたりするから、これもそうか。
振り向くとジェンスは不思議なことでもあったみたいに周囲を見回している。俺はジェンスの手をぎゅっと握りしめていたことに気づいて、そっと離した。
「ほら、この先。石段があるのさ」
俺はつとめて陽気な声を出すと通路の端へ歩いていった。石段を下りると、昨日みつけた朽ちた庭は何ひとつ変わらぬ様子でそこにあった。
ぐるりと木立に囲まれて、真ん中はすこしくぼんでいる。中心に立つ傾いた石像は風雨に表面を削られてしまったのか、だいたい人の形をしていることくらいしかわからない。
ジェンスはまだ不思議そうな顔をしている。
「ここは……? ユーリは今、何をやったんだ?」
俺はジェンスの言葉の意味を深く考えなかった。
「何って? それよりここ、面白いと思わないか? この壁が行き止まりのように見えるから、長い間ほっとかれているみたいなんだ。あの石像も傾いたまま放っておかれてる」
石像の前へ歩いていくと、ジェンスも俺についてくる。傾いた像の中央には細い亀裂が走り、苔がそこを埋めるように生えていた。
そういえば〈根〉の神殿にこんな像があるのも奇妙なことだ。世界樹のシンボルはあちこちにあるけれど、根幹信仰では世界樹に人の姿をとらせるのを冒涜としている。神子だけが例外だが、この像は全体にずんぐりむっくりした形だから神子像らしくない。神子はすらりとした少年の姿であらわされるときまっていて、大神殿に飾られた絵の中では必ず黒髪の少年として描かれている。
「世界樹も聖なる森も、枯葉や枯れ枝にもぜんぶ使い道があるっていわれたのに――あっ」
俺は亀裂にそってすべらせた指をあわててひっこめた。
「ユーリ?」
「なんだろう……ピリッとした。まあいいや。そこに座らないか?」
俺は石像から目を離し、石壁の下の腰掛けを指さした。ジェンスはさっとそっちへ行って、散らばった枯葉を払い落とした。
「で、おまえの親はどこの誰だ? 皇帝陛下の落とし胤だった、なんていうなよ」
冗談めかしていったら、ジェンスの肩がぎょっとしたように揺れた。
「おいおい、まさか大当たり?」
「そんなのじゃない。ただ……俺の生みの母はラコダスのヴィプテ家の者だと」
ヴィプテ家――? その名は昨日聞いたばかりだ。
(ヴィプテ家は先月からもめている――亡くなった当主の遺言から、継承権を持つ隠し子がいるとわかったからだ)
まさかジェンスがその隠し子?
皇帝陛下の――ということはなかったが、冗談が半分当たってしまったことに俺はとまどった。
「じゃ、おまえはどうなるんだ? 傭兵団は?」
口に出してからハッとして、おめでとうとか、よかったなというべきじゃなかったか、と思う。でもジェンスは真顔で正面をみつめていて、気にしていないようだった。斜めになった石像が俺たちを見返している。
「……ラコダスへ行くかモルフォドへ行くかで迷ってる」とジェンスが答えた。
「なんでそうなる? ラコダスはわかるけどモルフォドってどこだっけ?」
「帝国の境界に広がる遊牧民の土地で、エオリンの創設者が生まれたところだ。エオリンの馬はモルフォド産なんだ。もしヴィプテ家の使いとラコダスへ行かないのなら、団長がモルフォドへ行けと」
「……よくわからないけど、どっちもすごく遠いんだろうな」
俺は下を向いてそっと息をついた。
実をいえば俺はちょっとだけ空想していたのだ。将来――1年か、もっと先のことになるかもしれないが、帝都で
ずっと前から知りあっていたわけでもないのにどうしてこんな想像をしたんだろう。ジェンスと並んで座っているのが居心地いいから?
「ユーリ」
突然ジェンスがこわばった声で俺を呼んだ。
「何かがおかしい」
「何が?」
俺は顔をあげ、頬にあたる風――いや、体を包む空気全体が急に重苦しくなったのを感じた。ジェンスは真ん中に立つ石像を指さしている。石の色がさっきとちがうような気がして、俺はまばたきした。
「……変だな。さっきは――」
傾いた像の中心に走る亀裂。たしかに苔の緑色をしていたはずなのに、いまはどう見ても真っ黒だ。光の加減なんかじゃない――そう思ったときだった。
傷口をひらくように亀裂がぱかりと割れた。べとべとした黒いものがそこからしみ出し、石像ががくんと動いた。
「うわっ」
ジェンスと俺は同時に叫び声をあげ、石の腰掛けから立ち上がった。
斜めだった石像はいまやまっすぐに立っている。亀裂からあふれた黒いべとべとは石像の表面に広がって、全体を黒く塗りつぶそうとしている。
俺の頭の中で警告が鳴り響き、背筋がぞっと寒くなった。魔物だ。なぜ?
ここは世界樹のそびえる聖域だ。魔物なんかいないはず。どうして――?
立ち上がったのはいいが、俺もジェンスも体が動かない。魔物だとわかったとたん、恐怖で体がいうことをきかなくなってしまった。
なまぬるく重い空気が俺の喉を絞めつけ、吐き気がこみあげてくる。そのあいだにも真っ黒のべとべとは石像の上をどろどろと這いまわって、全体を真っ黒に覆い隠すと、石像ごとずるりと俺たちの方へ近づいた。像の頭がぬるりと回ってジェンスの方を向く。まるでジェンスを見分けているみたいに。
ジェンスを?
俺の頭の中にあの日の光景が浮かんだ。ジェンスに向かって襲いかかった真っ黒いもの。まさかこれも……。
次の瞬間、俺はジェンスを肩で突き飛ばしていた。
「ジェンス、逃げろ!」
強引に動いたせいかやっと声が出る。ジェンスがどうしているのかはわからなかった。ジェンスと石像のあいだに立った俺の目は真っ黒な表面に釘付けになって、そらすことができなかったからだ。
だけど、何も考えていなかったわけじゃない。そう、俺は思ったのだ。俺はこれまで二回魔物に遭遇して、二回とも退けた。俺に異能があるのはフィシスだって認めてる。だから今度も大丈夫なはず――
俺は両手をのばして石像につかみかかった。すると表面の闇は石像からぺらりとはがれ、俺の顔に覆いかぶさってきた。その内側には真っ黒の鋭い牙がびっしりと生えていた。