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第16章 ジェンス――夜明けの光(前編)

 暗黒が石像の上を這いあがり、みるみるうちに覆いつくす。

「ジェンス、逃げろ!」


 ユーリがどんとぶつかってきて、石像からはがれた闇がユーリに覆いかぶさった。一瞬のうちに金髪が暗黒の下へ隠れ、侍者の白い衣まで黒い膜に覆われていく。それをきっかけにしたかのように、ジェンスの中に隠されていた記憶がひらめいた。全速力で走る馬の背から振り落とされたときの衝撃、闇夜より暗いおぞましいものがジェンスの顔めがけて飛びかかり、頬に、ひたいに、目に、無数の刃が突き刺さる――


 いまこの時まで、魔物に襲われた瞬間のことをジェンスはまったく思い出さなかった。もしもあの瞬間を覚えていたら、今日までのあいだに、恐怖と痛みの記憶はジェンスを臆病な人間に変えてしまっていたかもしれない。


 しかし覆いかぶさってきた闇の記憶は、ジェンスをみつめるユーリの青い目に封じられていたのだ。

 それは信じられないほど明るい青だった。

 あのときジェンスはたしかに理解した。自分はこれさえつかんでいればいいと。

 ――そう自覚した瞬間、硬直していたジェンスの手足は自由を取り戻した。


「ユーリ!」

 おぞましい闇をふりはらうように声をあげたその時である。まばゆい白い光があたりに満ちて、ジェンスの目をくらませた。

 金髪を覆っていた闇がバラバラにちぎれ飛び、灰のように空中に舞う。ユーリの頭がのろのろと上がった。


「ジェンス、はやく行け……こいつはおまえを――」


 しかしジェンスはもうそっちへ駆け寄っていた。ぜいぜいと肩で息をしているユーリを起こすと、背後から支えて立ち上がらせようとする。そうしながらふと目をあげると、宙を乱れ飛んでいた闇のかけらがジェンスの頭のまわりでつながろうとしていた。


「やめろ――!!」

 すぐそばでユーリが叫んだ。がむしゃらな手がジェンスに触れ、顔を覆った闇をつかんで引きはがそうとする。しかし再生した魔物はユーリの力などものともしなかった。


 ジェンスの体から力がぬけ、どさりと地面に倒れこむ。たちまち暗闇に覆われた意識をつかまえるべくやってきたのはどろどろに溶けた死者たちだった。この世を支えていた巨大な樹は枝も根も葉もばらばらになり、怯えるジェンスを取り囲んでいる。絶望と恐怖と無力が支配するここでは永遠と一瞬の差異もなく、ひとすじの光も――


 だが突如として、そこに細く、夜明けの白い光がさした。





〈なんじ影より来たりしもの闇より這い出づるもの……〉


 破れた結界の内側で神官服の男が両手を高くさしあげる。純白の長衣は痩せた肩から地面のすぐ上まで重たく垂れている。


〈祈りて光を呼ばん闇に沈め闇に帰せ

 大樹よ、大樹よ、大樹よ

 根に呼べ枝に響け、葉にささめき魔を追え〉


 男は祈りの朗誦を唱えながら指を組み替え、腕を振り、膝をついてまた立ち上がった。紫の眸は魔物をぴたりと見据えたまま動かない。


〈腐りしものを拒みたまえ、闇より来たるもの還したまえ〉


 男が動くたびに地中から純白の光があふれ、渦を巻きながら空中に巻きあがった。ジェンスを覆う魔物は光に焼かれて蒸発し、純白の塵となってジェンスの周囲に降りつもる。


 完全に魔物が消失すると、男は石像へ向き直った。肩が上下に大きく揺れているが、かまわず無言で両手を結び、リズミカルに指を組み合わせていく。しまいに広げた両手を打ち合わせると、眸を閉じて頭を垂れた。


 石像がゆっくりと動きはじめた。

 円形をした結界の中心へ引き下がり、斜めに傾いて停止する。ジェンスが最初にこの像を見た時から変わった点はというと、中心に走る亀裂から洗い流されたように苔が消えてしまったことくらいか。


 男――フィシスは倒れている少年ふたりのそばにかがみこむと、それぞれの首筋に手をあて、閉じたまぶたをもちあげた。

 最初に気がついたのは黒髪の少年、ジェンスである。

「え……?」


 何が起こったかさっぱりわからない、という表情は、すぐ隣に横たわる金髪の少年をみたとたん、きれいさっぱり消え失せた。

「ユーリ!」

 獣を思わせる敏捷さでユーリに向き直った彼をみて、フィシスはかすかに目尻をあげた。 

「まだ触ってはいけない」


 黒髪の少年はまばたきをしてフィシスを見返す。まだ大人の体つきではないが、しなやかな肉体には日常の鍛錬が刻印のように刻まれている。このまま鍛えつづければ屈強な兵士となるだろう。

「フィシス……殿」

「エオリンのジェンス。無事で何よりだ」


 フィシスは少年にうなずいてみせ、ユーリに向き直ってやや荒っぽい手つきで両肩を持ち上げた。

「シャロヴィのユーリ。目覚めなさい」

 金髪の少年はうっすらと目をあけた。




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