ジェンスは神官の背後からユーリをのぞきこんだ。しかし青い目はぼんやりして、どうみても焦点が合っていなかった。
ジェンスの心は暗くなったが、フィシスは小さく舌打ちしただけで、片手をユーリの目の上にあてて口の中で何かつぶやいている。やがてユーリの体から力がぬけ、人形のように首がだらりと前に垂れる。
ジェンスは息をのんだが、フィシスはそのままユーリを地面に寝かせてしまった。紫の眸に厳しい表情を浮かべたまま、ジェンスの方に向き直る。
「エオリンのジェンス。この者のことは心配しなくてよい。きみはここで何が起きたか理解しているか?」
神官は長身だったが、その体躯はこころもとないほど細く、ジェンスにも簡単に打ち倒せそうだ。しかしその声にふくまれた怒りはジェンスを圧倒するのに十分だった。おまけにジェンスはこの問いにどう答えればいいのか、さっぱりわからなかった。
「起きてはならないことが起きた。ユーリが原因だ。この者には訓練が必要なのだ」
フィシスのまなざしがジェンスの片手におちる。それは地面に投げ出されたユーリの左手首をそっと握っていた。
フィシスの声がかすかに柔らかくなった。
「立てるか。早くユーリを連れ出さなければならない。わたしは大神官殿にご心労をかけたくないのだ」
「俺が運びます」
ジェンスはすばやく体勢を立て直すと、ユーリを腕に抱いてフィシスのあとに続いた。石段を数段のぼった先にはここに来たときに通った狭い通路がある。ところがそう思ったのもつかのま、まばたきをした覚えもないのに、いつのまにか袋小路の壁の前に立っていた。
「あ……」
「どうした?」
「さっきユーリとここに来たとき、最初はこんな行き止まりの壁だったのに、いつのまにかユーリがあの通路へ……」
「なるほど。そういうことか」
フィシスは軽くうなずいていったが、その足はもう小道を進んでいる。ジェンスはユーリを抱いてその背中を追った。
「あそこはヘルレアサの丘でもっとも脆い場所のひとつだ。結界が張ってあり、よほど強い異能を持たないかぎり、ふつうは入れないし存在も見えない。だがユーリは何も知らずにここを通り抜けた。そしてきみを招き入れたのだ」
ユーリはジェンスの腕の中で目を閉じたままぴくりとも動かない。フィシスは顔をしかめ、少年たちから目をそらした。
「きみが血の魔導の標的になっていなければ、単に結界を破っただけですんだのだが……」
「血の魔導」とジェンスはくりかえした。
「俺をかぎつけて……」
「これについては今日、エオリンの団長に意見を求められたところだった。安全のために何日か、きみを聖療院の宿舎に滞在させるよう勧めたばかりだ」
フィシスの声に苛立ちがこもる。
「もうすこしでユーリに大神殿の信用を台無しにされるところだった。まったくこんな馬鹿もの、どうしようもない」
ちがう、ユーリは俺を助けてくれた――ジェンスは思わず抗弁しかけたが、フィシスがゆらがぬ眸で自分をみつめているのに気づいて、すんでのところで言葉を飲みこんだ。とはいえ、ジェンスの心はあからさまに顔に出ていたにちがいない。
「たまたまうまくいったことは、二度はやれても三度はくりかえせない。だがわたしにも非はあった。ユーリの異能を正しく推しはかれなかったのだから……。破れた結界は元にもどした。これが無知ゆえの愚かな行動をくりかえさなければ、この丘は安全なのだ」
淡々と告げる神官の口調は多少おだやかになっていた。ほんの一瞬、その顔を覆う厳しさの仮面がずれてべつの何かがあらわれたが、ジェンスがそれをとらえる前にフィシスは背を向けてしまった。