――ここはとても静かだ。風の音も虫の声も聞こえない。
聖療院の奥の一室の簡素なベッドの上で、ジェンスは暗闇をみつめていた。
ここは聖療院の二階にずらりと並ぶ小部屋のひとつで、樹領で学ぶためにはるばる訪れた治療師や薬師が寝泊まりするという。エオリンの団長クエンスは禁忌の術をつかう魔導士の関与を大神殿に知らせ、ジェンスは少なくとも数日、ここに滞在することになったのだ。
消灯の直前までは外の廊下をいく足音やかすかな話し声が聞こえていたが、今は何の物音もしない。ジェンスは各地を転々とする生活に慣れていたが、四方を石の壁に囲まれた空間で、ひとりで夜をすごすことにはおよそ無縁だった。そのせいか、ほのかに薬草の香りがする寝具に横たわっても、手足の位置がどうもしっくりしなかった。
生みの親が判明しても、ジェンスにとってはエオリンが故郷だ。野外の気配がすぐそこにあるテントや小屋を転々とする暮らしも、周りに仲間がいれば怖くはない。しかしここにはジェンスの気をまぎらわす話し相手は誰もいなかった。
パリッとしたシーツの上で寝返りを打っていると、みじかいあいだに起きたさまざまな出来事がつぎつぎに頭にうかぶ。あまりにもいろいろなことを聞かされて、順序がばらばらになっている。
いったい何がはじまりなのか? 顔もわからない生みの母親がジェンスを身ごもったとき? エオリンがジェンスを迎え入れたとき? ヴィプテ家の当主が亡くなり、ラコダスの有力者たちがジェンスの存在を知ったとき?
だがジェンス自身がはじまりだと感じるのは、そんなことではなかった。
「ユーリ」
ジェンスは暗闇に向かってそっと口に出した。
今日の夕食は聖療院の食堂で他の滞在者たちと一緒にとった。治療を行う神官や侍者も同席したが、みな一様に静かで、声高に喋ったり笑ったりする者はひとりもおらず、傭兵団のにぎやかな食事風景とはまったくちがった。ユーリには会えなかった。夕食後にジェンスをたずねてきたフィシスは、まだ眠っているといっていた。
ライオネラの街中を歩いているとき、ユーリはひっきりなしに話をしていたし、とても楽しそうだった。でもここではどんな風にすごしていたのだろう?
「街は人間がいっぱいいるなぁ」
ジェンスはユーリが雑踏を眺めながら嬉しそうにそういったことを思い出した。
「シャロヴィではさ、誰かと顔をあわせるたびに村の噂をするんだ。あいつは今日何してたとか、何をいってたとか。だからみんな、自分は村のことならなんでも知ってると思ってる。でも実は何もわかってないのさ。こんなに人間がたくさんいたら、とてもそんなこと思えないだろうに」
ユーリは自分の故郷が嫌いなのだ。そして自分には他にいるべき場所があるといっていた。
にぎやかな街を楽しんでいたユーリは、この静かな部屋をどう思っているだろう。ユーリに激怒していた神官のフィシスは、彼をどうするつもりだろう?
フィシス。紫の目をした痩身の神官はジェンスが夕食をおえるころ聖療院へあらわれた。聖療院の神官や侍者たちがいっせいに立ち上がって敬意をあらわしたのは、彼が大神官につぐ高位の神官のひとりだから、らしい。
だがフィシスは神殿の人々の尊敬のまなざしなどまったく興味なさそうで、人払いをしてジェンスとふたりきりになると、今日、ユーリと共にジェンスが見聞きしたことを絶対に他言しないよう命じた。
「わかりました。ユーリは大丈夫なんでしょうか?」
厳しい表情の神官に質問をするのは勇気がいったが、フィシスの答えはそっけなかった。
「問題ない。あれも今度は多少堪えただろう」
ジェンスは暗い天井をみつめ、またユーリのことを考えた。聖療院の中庭で、自分の手を引いて連れ出したときの笑顔。ライオネラの街で、肉の串を頬張ってもぐもぐ食べていた様子。
……思い出せば思い出すほど胸の中がそわそわとたかぶってきて、ユーリの顔が見たくてたまらなくなる。
ジェンスはまた寝返りをうつと上掛けの下で枕を抱えこみ、やがて眠りにおちた。