翌日、聖療院を担当する神官のリーズがジェンスに神殿を案内してくれた。ユーリはあらわれなかった。理由もなくユーリに会えると思いこんでいたジェンスは落胆したが、リーズと共に祈りのテラスへやってくると、背中に緑の十字をつけた侍者がひざまずいて祈っていることに気づいた。
あれはユーリじゃないのか。そう思ったとき、フィシスが近づいてくるのがみえた。
「ジェンス、体調にかわりはないか」
「はい」
「魔物に遭遇した人間は、往々にして悪夢や理由のない不安にさいなまれることがある。昨夜は問題なかったかね?」
きょとんとしてうなずいたジェンスをフィシスは興味ぶかそうなまなざしで見返した。
「そうか。きみは相当な耐性を持つようだな。魔物に二度遭遇して、悪夢もみないのは珍しい」
ジェンスはそれよりも、ひざまずいて微動だにしない侍者の方が気がかりだった。
「あの、ユーリは……」
「あそこにいる。心配はいらない、やっと本気になっただけだ」
フィシスの声は昨日と同様そっけなかった。だが何気なくその顔に目をやって、ジェンスはふと、練兵場で自分の相手をしてくれた傭兵たちのことを思い出した。無関心なふりをしながら、さりげなくジェンスに助言をくれた古参兵たちだ。
フィシスにとってユーリは何なのだろう――ふとそんなことを思ったとき、背後で数人の靴が石の床を鳴らしてジェンスの横を通り過ぎていった。白く長い神官の衣と白い防具に身を固めた兵士があわせて六人、テラスの中央で祈りはじめる。六人とも翼の模様のある短いマントを身につけている。
「双翼の者たちだ。これからラコダス方面へ出立する」とフィシスがいった。
「今回の彼らの使命は、血の魔導の呪物を探し出し、魔導士を捕らえることだ。きみの問題は早急に解決するだろう」
双翼。これについてはいつだったか、エオリンの誰かが話していたはずだ。ハッチェリ? いや、メルクだったか。
「……神官と兵士がひとりずつで〈双翼〉なのですか?」
「ああ。 使命を受けて各地を旅し、〈根〉に祈りを捧げる神官の消耗は大きい。支える者がいなければ務まらないのだ」
「ユーリもここに留まっていれば、いずれ彼らのようになるのでしょうか」
フィシスはジェンスを横目でみたが、すぐにテラスの隅でひざまずいているユーリへ視線を戻した。
「そうだな。そうなるべきなのだ。あれには力があるから、きみがラコダスへ行きヴィプテ家の跡継ぎとして立つように、それがあるべき形だろう」
「でも俺はラコダスに行くと決めていません」
「なぜだ? ラコダスは美しい都市だ。双翼の片割れだったころ、わたしも何度か行ったことがある」
そのときだった。いきなりジェンスのまぶたのうらで、自分の未来の像がはじけた。翼のしるしがついたマント、白い甲冑、同じマントを肩から垂らして、自分の横に立っているユーリ。
「でも……ユーリが彼らのようになるなら、俺もあそこにいる兵士になれるのでは?」
フィシスの眉がぎょっとしたようにあがったが、すぐ元の無表情に戻った。テラスでは三組の双翼、六人がひざをついて祈っている。神官は小さく肩をすくめ、たしなめるようにいった。
「きみは何も知らないのだ。神官の隣に立つ兵士はふつうの人間には務まらない。つねに闇の亀裂に遭遇する可能性があるのだからな」
「俺はもう二回魔物に遭いました」とジェンスは返した。
「俺がいまここにいられるのは、あの日ユーリがいたからです」
「それで?」
フィシスの声はあくまでも淡々としている。
「異能を持たない者が神殿に所属するには、現世の権利を捨てなくてはならない。神殿兵になるとはやり直しのきかない選択なのだ。うかつな思いつきにふりまわされると、長きにわたって後悔することになるぞ」
それはちがう、とジェンスは思った。さっきの直感はそんなものではなかった。脳裏にひらめいた未来の像は一瞬でジェンスにすべてを理解させ、次の一瞬で消えてしまった。だから今、ジェンスにわかるのはこれだけだ。
――ユーリに出会う前までジェンスがぼんやり思い描いていた未来には取り立てて意味などなかったし、今のジェンスの中心には、これまで気づいていなかった欲望がある。
「いいえ、ちがいます」
ジェンスのきっぱりとした口調に、フィシスの肩がびくりとあがる。
「これはうかつな思いつきなんかじゃない。俺の望みはユーリの横で戦うことです」
自分の心が向いているものをほんとうに理解するには、言葉にして発することが必要なのかもしれない。自分自身の声を聞きながらジェンスはふとそう思った。