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第19章 ユーリ――虹の覚醒(前編)

 高いところでさわさわという葉ずれの音が響いている。俺はひんやりとした石のテラスに裸足で一歩踏み出す。掃き清められた石の表面は磨かれたように光っている。着ているのは足首までくる若葉色の長衣だ。この儀式のときにしか身につけないもので、世界樹の葉で染められている――と、おとといの夜フィシスが教えてくれたことだ。


「世界樹の若葉色を身につける儀式は二度とない。心して臨むのだぞ」

 そのときフィシスはそういったのだが、巻尺で俺の背丈をはかりながらのことだったから、俺はまっすぐ顔を前に向けたうなずくこともできなかった。背丈を測ったのは、これまで同じ儀式に出た他の少年たちより俺はすこし年上だったからで、長衣の裾を下ろさなければならなかったのだ。

 巻尺の目盛りをみたフィシスは顔をしかめ、もう一度測り直した。

「……短期間でも背は伸びるのか」

 俺は思わず首を動かした。

「え?」

「動くな」


 フィシスの部屋で眠ったのはその日が最後だった。というのも、翌日から俺は大神殿の外の樹領にある、修習生が寝起きする寮に移ったからだ。

 下級神官が寝台、机に椅子、箪笥がひとつ置かれた小さな部屋に俺を連れていき、これからはひとりでこの部屋を使うようにといった。フィシスの侍者のつとめに変わりはないが、今後はここから大神殿へ通わなければならない。若葉色の長衣はその日の夜、部屋に戻ったときに届けられていた。


 今、フィシスは石のテラスのつきあたりに立っている。高位の神官三人のいちばん左側に立ち、顔はいつもの無表情だ。

「宣誓する者は進み出よ!」


 俺は両手を胸の前であわせ、まっすぐに歩いていく。高位の神官三人の両脇には〈双翼〉が一組ずつ立っていた。大神官はいない。以前は大神官が神官見習いの宣誓儀式を直接執り行っていたが、当代の大神官ギラファティは慣習をあらためてしまった。


 神官と双翼のまなざしを痛いほど感じながら、俺は決められた場所までいき、膝をついた。儀式の手順はすっかり頭に入っている。


「宣誓を行う者よ、名は名を告げよ」

 フィシスが無表情でいった。この儀式は毎日行われる祈りよりずっと大げさだ。神官の問いも、俺の答えも、みんな決まっている。

「われの名はユーリ」

「ユーリよ、望みを告げよ」


 石のテラスのすぐ先に世界樹の幹が巨大な壁となってそびえている。俺は苔むした樹肌を見据えたまま、決められた言葉を唱える。

「われ世界樹のひとひらとして生まれ、ここに根へと還らんことを望む…」


 幾千の魂を巡らせる根の調和に、わが綾を編み加えん。

 わが肉を枝とし、わが血を葉とし、

 わが祈りをもって、浄化の力に触れんことを。

 根よ、われを取りて、よしとせよ。


 なぜか耳のすぐ近くでさわさわと葉ずれの音が聞こえていた。最後の言葉を唱えおわったとき、俺は自分でも気づかないうちに顔をあげ、ずっと遠くにあるはずの世界樹の梢をみつめていた。頭の芯がくらりとして、体がすうっと軽くなる。あっと思ったときには葉の表面から樹の中に吸いこまれていた。体をすっぽりつつみこむほど太い半透明の導管を転がりおち、下へ、下へ――その先で骨のように白い根が揺れながら俺を待ちかまえている。


 世界樹の中にいるというのに、俺の耳にはなぜか雨の音や風の音が響いている。右耳に届くのはシャロヴィの森に降りそそぐ雨で、左耳に聞こえるのはラコダスに通じる街道をふき抜けていく風。世界樹はこの地上のあらゆるところへ根を伸ばし、水と土と風と光をつかさどる。


「なんと!」

「世界樹の祝福が……」

 頭の上で人の声がするが、羽虫がブンブンいっているようでうっとうしい――そう思ったとき、鋭い声が俺の心を世界樹の外へ連れ戻した。

「宣誓はなされた、ユーリ!」


 俺はハッと我に返った。頭を下げるとあざやかな緑の葉が薄緑色の衣に落ち、俺のまわりを囲むように石のテラスに緑の輪ができている。


「恐れるな、それは〈根〉の祝福。そなたの声が届いたのだ」

 フィシスの隣に立つ神官が笑顔でいった。

「宣誓の儀式で葉が舞うのは久方ぶりだ。さすがフィシス殿が見こんだだけはある」

「ノリン殿、おやめください。この者は慢心に陥りやすいゆえ」


 神官たちの声はちゃんと聞こえていたが、俺はまだおどおどとあたりを見回していた。衣を覆う緑の葉はちらちらと明滅する金色の影に縁取られている。目をずらすとそれは赤や青や黄色の――虹色のきらめきに変わり、塵となって風に消えていく。

 さっきまでこんなもの、見えなかったのに。


「ユーリ、立ちなさい」

 俺はびくっとしてフィシスを見上げた。その表情はいつになく柔らかかった。


「その葉を集めなさい。世界樹はかけらであっても私有することはできないが、誓いの祝福は例外だ。飾り輪の作り方を教えてやるから、おまえの部屋に掛けるといい」





 神官になると心をきめてから宣誓の儀式まで十日あり、そのあいだに俺の生活は大きく変わった。フィシスの侍者として朝夕の食事を運んだり身支度を手伝う仕事はこれまで通りだったが、日中はこれまでのようにフィシスにいいつけられた雑用をするのではなく、樹領のあちこちに据えられた祈り台で祈りの〈型〉を練習するようになった。

 祈りの型って、なにかって?


「丘を訪れる巡礼にとって、祈りは世界樹への感謝をあらわす行いだが、わたしやおまえのような人間にとって、祈りは異能を引き出し統御する方法だ。まず〈型〉を定めて力を引き出し、さらに〈綾〉を整えることで、世界樹の構理こうりにのっとって異能を使うことができるのだ」


 最初フィシスにそういわれたときは正直ちんぷんかんぷんだった。〈型〉は祈るときの体の扱い方――体勢だけでなく、呼吸の仕方や何種類もある手指の組み合わせ方――のことで、〈綾〉は祈りの言葉を唱えるときの心持ちのことだろうか?――と俺が思ったとたん、フィシスはこういった。


「〈綾〉も〈型〉と同様に、状況に応じて各種の祈りの言葉と組み合わせ、整えていくものだが、最初から〈綾〉を捉えられる者はめったにいない。まずは〈型〉を覚えることからだ」


 やっぱり修行というだけあって、一足飛びには進まないらしい。俺が神官になるときめたのは、フィシスが魔物を撃退する祈りがある、といったからだけど、そんなに簡単には覚えられないものなのか。

 そしてそんなことを思いながらはじめた〈型〉の練習も、想像したよりずっと難しかったのだ。


 ヘルレアサの丘へ来てから、俺は毎日のようにフィシスが他の神官と共に祈りの儀式を行う様子をみていたし、ひとりで祈り台に跪いているときも後ろに控えていた。実をいうとそのころは神官が行う〈祈り〉も巡礼がやっていることとたいしてちがわないと思っていたのだ。

 もちろん、フィシスをはじめとした神官たちは、儀式のとき俺には難しい祈りの言葉を朗誦するし、祈るときには独特な形で両手を組み合わせている。この手の形も〈型〉をなす要素のひとつだなんて、俺は考えもしなかった。


 フィシスはとまどっている俺に、いつもの無表情で「おまえの無知は当然のことだ」といった。

「わたしたち異能者にとっては、世界樹を前にしたときのあらゆる身ごなしが〈型〉となりうる。だが、これを知るのは修行の覚悟がある者だけだ」


 あらゆる身ごなしっていうのはつまり、〈型〉は祈り台に跪いたり立ちあがったりする動作の最初からはじまっているということだ。

 というわけで俺の修行は〈型〉の組み合わせとなる動きを体と頭で覚えることからはじまったが、夜明けの祈りひとつとっても〈型〉は何通りもあり、あの石像の出来事がなかったら、最初の一日でうんざりしていたことだろう。


 でも俺は自分の愚かさのせいで、すぐ横にいる人間が魔物に襲われてしまうなんてこと、もう二度とごめんだったのだ。



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