◆◆◆
「***? ***? おい、どうした。起きてるか?」
「――え? 俺、どうかした?」
「呼んでも答えないからさ、目を開けたまま寝れるのか? どこに意識飛ばしてるんだよ。もうすぐ着くぞ」
「あれ? 寝てたつもりなかったんだけど……ちょっといいこと思いついてさ。これどう思う? 世界がいくつも地層みたいに重なってる設定なんだよ。概念的にだけど。で、主人公はユンボでうっかり境界崩しちゃって、アームの先っちょから異世界に引きずりこまれるわけ。そしたら向こう側でユンボが世界を渡る神って扱いになって、運転してた主人公は神子だってことになって……」
「そんなこと考えてぼうっとしてたのかよ。俺は運転してんのに」
「いやあ、いい考えじゃないかって思ってさ。転生っていえばトラックにはねられるのが定石だけど、これからはユンボで掘る! みたいな。で、地層みたいに重なった各世界のいちばん上の世界にはでっかい樹が生えててさ、いくつもの異世界がこれでつながってたりすんの」
「あー……おもしろそうおもしろそう」
「適当にいうなよ」
「適当じゃねえよ! おまえが見たいっていうからはるばるやってきて、レンタカーまで借りたんだぞ。あっちみろよ」
「え? 何? あ! あれ!」
「……さっきから小さく見えてんのに、今さらなに驚いてるんだ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「マジか。すごいな、どんどんデカくなる! すごいすごい! ありがとう! うわぁ、こりゃ楽しいわ。どこまで近づける? 前にクルマ停められる?」
「そのつもりだけどさぁ……***」
「何?」
「これ、一応デートだよな?」
◆◆◆
「それは俺もそのつもりで――」
俺はそういいながらベッドの上に起き上がり、自分が真夜中の闇をみつめていることに気がついた。
「……ゆ、ゆめ?」
たしかに夢だ。俺はひとりで寮の部屋にいる。フィシスは俺を個人的な侍者として自室に住まわせていたが、正式な神官見習い――修習生となった俺は、もうフィシスの部屋にはいないのだ。
小さな窓から青い月明りが差しこんで、机と箪笥の影が床に落ちている。起き上がるその直前まで、膝や背中の感触までわかるほど鮮やかだった夢の印象は急速に薄れていこうとしていた。俺は必死で記憶を呼び起こそうとした。夢の中の俺はとても幸福で、満ち足りた気持ちだったから、忘れたくなかったのだ。
俺は動く箱の中に座り、巨大な水辺――ライオネラの北を流れる河よりもっと大きな、どこまでも続く水辺――のきわを進んでいる。俺が座っている箱は、馬に引かせているわけでもないのに、幅広のなめらかな道を勝手に進んでいく。俺は隣にいる誰かと話をしていて……。
前にもまったく同じ夢を見なかったか? シャロヴィで魔物に襲われたあと、何度も繰り返し頭の中に閃いては消える光景のひとつだ。でもこれまでとは何かが違っていた。
――そうだ、声。
俺はハッと姿勢を正した。声を聞いたのは初めてだ。でも、いったいどんな声だった?
思い出そうとしたとたん、頬を冷たいしずくが伝っていった。俺は自分が泣いていることに気がついた。強烈な懐かしさと寂しさで胸がつまる。俺の中の何かが夢の中の景色をもとめているのだ。できるものなら今すぐにでも、ここから飛び出していきたいような――
フィシスはなんていったっけ? 異能者というのは異界の魂のかけらを宿して生まれてきた者で、中には転生した魂の記憶を持つ者もいる――
つまりこの夢は、異界の魂の記憶がみせたものだろうか。
でも、なぜ「俺」がこれを懐かしいと、
俺はフィシスの厳しい顔を思い浮かべた。彼はどうなんだろう。
窓から青い月の光がさしこんでくる。俺はもう一度横になろうとしたが、寂しさだけを残して消えた夢のかけらのせいか、ちっとも眠れなかった。もう一度おきあがり、扉をうすくあけて廊下をのぞく。物音ひとつしなかった。寮の住人は寝静まっているにちがいない。
俺はベッドをすべりおり、靴を持って裸足で廊下に出た。シャロヴィにいたころから、みつからないよう気配をころして忍び歩くことには慣れている。樹領の他の建物と同じように、寮は小さな中庭を囲んでいた。俺は廊下の窓から回廊の屋根に這い出して、靴を履いた。
夜闇のなか外へ抜け出すのは、あの日――門の外でジェンスに出会い、フィシスに連れ戻された日以来だ。
そういえばジェンスはどうしているだろう。とっくに聖療院の宿舎からエオリンの駐屯地へ戻っているはずだ。一度でいいから会って話したいと思っていたのに、祈りの〈型〉を教わるようになってから、まったくそんな暇がなかった。修行をはじめた見習いはヘルレアサの丘を降りることができないのだ。
ジェンスはきっとラコダスに行くとフィシスはいったが、俺はそのうち手紙を送るつもりだった。ジェンスがどこに行ったとしても、エオリンの傭兵たちはきっと届けてくれるだろう。
俺の失敗がジェンスを殺すところだったとわかったあとは、丘を離れる気にはなれなかった。だからいまも逃げ出そうとしているのではない。ただ誘われるような、あるいは後ろ髪を引っ張られているような……そわそわした気分が俺を急かしているだけだ。
俺は青い月の光に照らされた樹領を歩き、いつのまにか世界樹の幹からほど近い場所に据えられた、古い祈り台にたどりついていた。何気なく段の上に目をやって、思わずその場に固まる。
白い影が跪いて祈りを捧げている。
こんな時間に誰が――?
そう思ったときだった。
祈り台の上で白く淡い光が灯った。最初はたんぽぽの綿毛のようにふわふわと頼りない様子だったが、しだいにはっきりした輝きになって、上へ、世界樹の方へ昇っていく。みつめていると綿毛がいくつかに分かれて、それぞれが紫、青、緑……と異なる色に輝きながら、さらに上へ昇っていく。
どこまで行くのだろう?
と、そのとき、世界樹の梢から同じ色の光が、まるで糸を垂らすように下へ、下へと伸びてくるのに気づいた。暗闇の中で糸はとてもあざやかに輝き、上へ向かう綿毛の弱々しい光とは対照的だ。
俺はふらふらとそっちへ近づいて、無意識に手を伸ばしていた。月の光が地面に濃い影を落としていることも、すっかり忘れて。
「誰だ!」
いきなり祈り台から声が響き、俺はほとんど飛び上がりそうになった。なぜって、それはさんざん聞きなれた声だったからだ。
「こ、こんな時間に祈るのか? フィシス」
本当はそんなことを聞く前に、さっさと逃げ出すべきだった。
祈り台の上でフィシスが立ち上がった。灰色のマントの下は寝間着なのだろうかと、俺はよけいなことを思った。
「おまえは宣誓したのだぞ、ユーリ。言葉づかいに気をつけなさい。わたしのことは師と呼ぶのだ。それに…」
フィシスは腰に手をあて、俺を睨みつけた。
「こんな時間にといいたいのはわたしの方だ。まさか逃げ出そうとしたわけではあるまいな?」
「……ちがいます。俺にもわからないんです……呼ばれたような気がして……」
俺は世界樹の梢に目をやった。そこからはいまだに青や紫のほのかな輝きが降り注いでいる。
「ここへ来たら、光が見えて……」
フィシスの眉間に皺がよった。
「光?」
「紫や緑色の……俺が見ている間も、祈りにこたえるように樹から降ってきて……あれはなんですか? 師よ」
あわてて最後に「師」とつける。フィシスの眉間の皺が消えた。
「まさか……ユーリ、おまえには〈綾〉が見えるのか?」
「綾って……? 宣誓の儀式のときも、葉っぱのまわりに虹色の光が……」
フィシスの顔がさっと引き締まると、祈り台からすばやく降りてきて、俺の横に立った。
「あのとき降ってきた祝福の葉から?」
俺がうなずくとフィシスは長身をすこしかがめ、俺に目をあわせた。ほんの一瞬、フィシスの紫の眸の周囲に虹の七色がきらめいたような気がした。
「なるほど。おまえは完全に覚醒したのだな」
フィシスがささやくような声でいった。ここにいるのは俺たちだけなのに、他の誰にも聞かれまいとしているかのように。
「おまえのいう色、それが〈綾〉だ。間に合って幸いだった」
間に合うって、何に?
そう聞き返したかったが、フィシスの眉間にはまた皺がよっている。聞きたいことは他にもあった――でも、こんな顔のフィシスには逆らわないにかぎる。
「覚醒したばかりの頃は世界樹の力に敏感になるものだ。おそらくわたしの祈りがおまえの眠りを邪魔したのだろう。だが、夜中に寮を抜け出す理由にはならぬ。早く部屋に帰りなさい」
「は、はい」
「まっすぐ戻るのだぞ」
俺はぺこりと頭をさげ、数歩あとずさってからふりむいて、歩きはじめた。またすこし歩いてからふりむくと、祈り台は紫色の光の糸に覆われていた。