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第20章 ジェンス――唯一の選択(後編)

「ジェンス」

 暗いテントにすべりこんだとたん、奥からトラクスの声が聞こえた。ジェンスは暗闇に目をこらす。トラクスは義足を外し、寝床に片足を投げ出して座っている。


「父さん。もう寝ているかと思ってた」

「いや。待っていた」

「……それなら悪かった。もっと早く――」

「気にするな。チェリがもう寂しがっているからな」


 傭兵団で宴会をすることはめったにないが、今夜はクエンスが貴重な古酒を持ち出してきたから、新兵も古参兵も集まって飲んだのだ。自分の送別会がわりだとジェンスにはわかっていたが、誰もそんな野暮なことはいわない。しかしハッチェリはいつになく酔っぱらって、しまいにユティラにテントへ引きずられていった。


 ジェンスはトラクスの隣に座ったが、明かりはつけなかった。


「ユティラの薬はまだあるか? 塗ろうか?」

「今はいい。それより……」

 トラクスは迷っているような間を置いた。

「こんなふうに話すのも今日が最後かもしれないからな」

 ジェンスは小さく笑った。


「大げさだな。どんな兵士にも休暇くらいある」

「……俺はおまえがいつかラコダスに行くと思っていた。おまえは自分の血を浴びる傭兵稼業とは無縁の場所に生まれた子供だったから」

 暗闇に慣れた目には父親の顔や体の輪郭はわかるが、表情は見えない。

「どうだろう」とジェンスはいった。

「フィオミア殿の話では、結局ヴィプテ家も血と策謀にまみれているんだろう?」


 トラクスはジェンスに直接答えず「俺はあの男が気に入ってなかった」といった。

「ティターノ殿は彼のように浅薄な人物ではなかった。だからおまえを預かったし、彼は約束を守った」

「それでも父さんは父さんだ。俺はずっと、エオリンの正式な団員になると思っていた」

 トラクスは小さく咳ばらいをした。


「まあ、聞け。クエンスと俺は最初、やっかいなことに巻きこまれたと思ったんだ。クエンスは片足程度で俺を手放すものかといったが、あのころの俺たちは帝国軍の裏切りや、他の傭兵団に出し抜かれてかなり参っていたんだ。だがティターノは誠実な男だった。おまえの母親は父の名を明かさずに亡くなったが、ティターノがそうだとしても俺はかまわなかった。異母きょうだいのあいだには間違いが起きるのはそれほど珍しいことではない。だからおまえが継承権を放棄しても、世界樹から直接生まれたわけじゃないことはちゃんと覚えておけ」

 ジェンスはトラクスの言葉を頭の中でくりかえした。

「わかったよ」


 トラクスはあくびをすると、疲れたように寝床に横たわった。ジェンスは座ったまま「足を揉もうか?」とたずねた。

「ああ。頼む」

「ついでに薬も塗ろう」


 切断されていない左の足先からさすりはじめると、すぐにトラクスの体から力が抜けた。ジェンスは左足を一通り揉んでから、いつも同じ場所に置いてある薬をとると、慣れた手つきで塗りはじめた。


「ジェンス」

 トラクスが眠そうな声でいった。

「何?」

「おまえは〈根〉の神殿に心から帰依しているわけじゃない。それなのに神殿兵になると決めた理由はヴィプテ家と魔物だけか? ああ、神殿からきた金髪の子は見事に魔物を追い払ったな…」


 手から薬の容器が転がりおち、ジェンスはハッとした。テントの隅へ転がっていくのをすばやく捕まえ、ふたをしめる。

「ユーリだ。彼の名はユーリ」

「そうか」

「父さん、俺はユーリが好きなんだ。父さんがクエンスの横にいるように、ユーリの横にいるのを俺の役割にしたい」

「そうか……」


 トラクスは横たわったまま片手をのばし、ジェンスの背中を軽く叩いた。

「昔、神殿が無実の魔導士を狩っているのに出くわしたことがある。そいつはかつて神官だったと聞いていたから、俺は不思議に思ったものだった。アルコンの肩を持つわけじゃないが、〈根〉の神殿にはときどき妙なことがある。ユーリのために神殿を選んだのなら、最後までそれをつらぬけ」

「ああ」

「……どこに属していようが、おまえは俺の息子だ、ジェンス」


 トラクスがおだやかな寝息を立てはじめるまで、ジェンスは彼の足をさすっていた。




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