森は、夕暮れ時の薄闇に覆い隠されようとしていた。梢の隙間に見える空にはまだ白い光があるが、木立の下、細い根がうねうねと地表を這う森の底は、もうほとんど見通しがきかない。
土で汚れた細い足が木の根を避けながら走っていく。まだ十歳になるかならないかの、黒髪の子供だ。しみと穴だらけの服の下から、鬱血した肌がのぞいている。いまにもバラバラになりそうな靴が厚く積もった枯葉をけちらしたとたん、梢の上で鴉が鳴いた。ここに誰かいるぞ、と教えているかのように。
子供はびくっと肩をふるわせ、その場に立ち尽くした。ろくに櫛を通したこともなさそうなその髪はまじりけのない漆黒で、見開いた目も黒曜石のように濡れた黒だった。眸にうつるのは不安と恐怖の影だけだ。
子供は怯えた目で周囲を見回した。そのあいだにも、あたりはどんどん暗くなっていく。鴉はもう梢から飛び去った。今はカサカサと藪を揺らす音が聞こえるのみ。こちらへ近づいてくるようだ。獣だろうか? それとも……。
獣は村には近づかない。しかし黒髪黒目の子供にとって、生まれ育った村は自分を守ってくれる場所ではなかった。
*
あー……疲れたなぁ……。
午後の太陽がゆっくり傾いていく。昼に休憩した時は元気いっぱいだった馬は、今はもう、この世に愉快なことなど何ひとつないといった様子でひたすら歩いているだけである。
それをいうなら俺も同じで、馬の背に揺られる旅にすっかり慣れっこになったとはいえ、午後も遅くなるともうぐったりだ。野宿でもなんでもいいから、早く休みたくて仕方がない。でも前を行くジェンスはそうでもなさそうで、ぴんと伸びた背筋に疲れた様子はうかがえないし、蹄の音も心なしか、快活に聞こえる。
「おーい、ジェンスぅ」
俺はがっしりした背中に向かって呼びかけた。
「今日はどこまで行く? そろそろ……」
ジェンスがちらっと俺をふりむき、前を行く馬の足がすこし遅くなって、俺の隣に並んだ。ジェンスはどんなときも、一心同体になったように馬を自在に乗りこなしている。旅慣れただけの俺とは大違いだ。そして案の定、その顔は俺みたいにくたびれはてていない。
「神殿で聞いた話の通りなら、もうすこしで村が見えるはずだ。休みたいか?」
「そりゃ休みたいさ。いつだって休みたい、それが俺だ!」
ジェンスは唇の端をかすかにあげた。
「たしかに。それでこそユーリだ」
冗談なのか本気なのかよくわからない口調も、いつもと同じだ。俺と同じ、翼のしるしが入った旅のマントを着ている。フードの下に見え隠れする黒髪は日に焼けて、ところどころ茶色の筋が入っている。
そのまましばらく進んでいくと、やがて西の空が夕日で赤く染まりはじめた。俺が乗る馬のたてがみそっくりの雲がその中をふわふわ漂っている。俺は刻々と暮れていく空を眺め、今度こそ、と思いながらいった。
「おい、じきに真っ暗になるぞ。ここらで止まってもいいんじゃないか?」
「その前に着く。煙の匂いがする」
「そうか?」
俺は風に向かって鼻をひくひくさせた。いわれてみればそんな気もするが、ジェンスは俺よりずっと目も鼻もいいから、これも気のせいかもしれない。
「ああ、もうすぐだ」
「それ、さっきもいわなかったか?」
「いや、さっきは『もうすこし』といった」
「そんなのわかるかよ……」
俺はぼやいたが、ジェンスがだいたいの状況で正しいことをいうと知っていたから、とりあえず黙った。
というか、ジェンスはたいていのことで俺より秀でているのだ。神殿兵として必要な資質、つまり剣や馬の扱いに優れているだけじゃない。手先は器用だし、俺よりきれいな字が書けるし、ややこしい計算も得意だ。
大神殿の兵団には、取っ組み合いと剣を振り回す以外に能のない輩が山ほどいるが、ジェンスはそうじゃない。見る人が見れば、兵士にしておくには惜しいというかもしれない。あるいは、俺と〈双翼〉にしておくにはもったいない、とか。なにしろ俺は、〈綾の構理〉を操る異能以外は、せいぜい人並み(場合によってはそれ以下)の能力しかない。
いや、だからこそ〈双翼〉が存在するともいえるのかも。異能もちの神官はそれ以外は役立たずだから、ひとりで神殿の外に出すわけにはいかないってわけだ。もっとも、俺以外の神官がみんなそうかっていえば、たぶんそんなことはない。悲しいことに。
ジェンスの鼻がどのくらい正しいかはともかく、もうすぐだと思えば元気が出る。俺の馬も励まされたのか、足取りに勢いが出てきた。
「ユーリ、見えたぞ」
ジェンスと同じ方向へ顔を向ける。分かれ道の先に明かりが見えた。石積みで区切られた農地に水路、家畜を囲う柵もある。
「思ったより広いな。ひさしぶりにちゃんとした寝床にありつけるかもしれない」
俺は土埃まみれのマントを見下ろした。野宿続きだったから、フードの下の髪もべたべたしている。こんななりじゃ、俺が神官だっていっても信じてもらえなかったりして。