村長は森の入口まで案内させると申し出たが、俺は断った。昼間の森は人間に恵みをもたらす場所だが、夜はまったくちがう世界になる。たいていの村では日没から夜明けまで、近づくことも禁じている。
もう馬には乗りたくなかったから、歩いていくことにした。日はとっぷり暮れているが、月が上っているところだから、明かりなしでもどうにかなる。俺は村人が誰もついてきていないことを確かめると、隣を歩くジェンスにひそひそ声でいった。
「なあ、村の連中、ちょっと変じゃなかったか?」
案の定、ジェンスもうなずいた。
「ユーリもそう思ったか」
「ああ。夜の森に子供がいるとなったら、ふつうはもっと大騒ぎになるだろう? それに次の馬車で行かせるとかいうのは、何のことだ?」
「わからないが、わけありの匂いがする」
「村そのものは、おかしな感じはしなかったけどな。村人の身なりも悪くなかったし、蓄えもありそうだった。まさか盗賊村じゃないよな?」
辺境ではときおり、盗賊の一団が農村を偽装している集落に遭遇することがある。旅人が一泊の宿を乞おうものなら、たちまち餌食になってしまう。
「いや、それはないだろう」
ジェンスは落ち着いた声で答えた。
「馬の世話を頼むついでにざっと見たが、厩にはラバしかいない。家畜の囲いにいるのも牛と羊だけ。念のため干草の梱も調べたが、おかしな点はない」
「いつのまにそこまで? 素早いな」
例によって俺は感心したが、ジェンスはどうということもない、という顔をしている。
「それに、俺たちの馬がモルフォド産だとも気づいていなかった。盗賊村ならありえないだろう」
そう、俺たちは珍しい騎乗馬に乗っている。傭兵団エオリンの伝手で手に入れたモルフォド産の若駒だ。盗賊や兵士なら見逃すはずがない。
「……ってことは、問題は子供にあるのか?」
俺はそういいながら、森の黒い影をみつめた。背後には低い丘が連なっている。
「まあいい、さっさとみつけようぜ。首尾よく子供を連れ帰れば、飯と風呂が待ってる」
「すぐにみつかると思うか?」
「大丈夫さ。地中の根から〈綾〉を引き出す。おっかないのは獣だ。森が深ければ、魔物が出てきそうな〈裂け目〉もあるかもしれないが、あったらあったで――」
「問題ない。俺にまかせろ」
またも落ち着いた声が返ってきて、俺は思わず微笑んだ。
「頼りにしてるよ、相棒」
ジェンスと二人で〈双翼〉に任命され、旅に出るようになってから半年ほどたつ。でも十六歳で出会ってからはもう五年すぎている。それは俺が、生まれ故郷のシャロヴィから神殿都市ライオネラへ連れて来られ、神官修行をはじめてから五年、ということでもある。
最初の一年、俺はフィシスの従者兼神官修習生として、大神殿で修行と雑用にあけくれていた。二年目は神官補佐に、三年目には下級神官に昇格。翌年はライオネラ周辺の小さな神殿を転々としながら上級神官の補佐をつとめた――まあ、それなりに。
そのあいだジェンスは何をしていたかというと、神殿兵団の一員として、大神殿と各地の神殿を転々としていた。
こういったら俺とたいしてちがわないようだが、神殿兵団の中では、ジェンスの評価はとても高いのだ。十六で入団してからしばらくは、傭兵団で育ったこともあってか、可愛げがないと思われていたらしい。でもすぐに上層部から一目置かれるようになった。冷静沈着、勇猛果敢、戦略を立てる頭脳もあるという評判は上級から高位の神官にも届いていて、それはつまり、大神殿での俺の評判とは真逆だということだ。
いまは俺に歩幅をあわせてくれているが、五年の間にジェンスの背丈はもちろん、腕や肩の厚みも増した。頬も削げて精悍な顔つきになっている。「冷静沈着」が似合う顔だ。
実をいうと、俺はたまに見惚れそうになって、あわててよそを向いたりする。
もちろん俺だって背は伸びたし、もう十六のクソガキの顔じゃない。でもフィシスは俺のことをいまだに、十六のクソガキだと思っているかもしれない。
それにひょっとしたら――いや、たぶん確実に、神殿兵団の上層部は、ジェンスが俺と〈双翼〉になったことを残念に思っているだろう。ジェンスなら兵団の指揮官にもなれたかもしれないのに、よりにもよってこの俺と〈双翼〉だなんて、と。
俺は自分の異能を制御したくて、大神殿に誓いを立てた。五年のあいだにそれはだいたい叶ったが、同じ頃に誓いを立てた修習生のように、神殿の中でおとなしく修行や奉仕に励むことは、なかなかできなかった。そしてそれは、神官になってからも変わらなかった。
どうも俺には、他の人間と同じように、ふつうにやるってことができないみたいだ。大神殿にいるときは、他の神官と同じように〈綾〉を操ることができなくて――というより
俺が〈双翼〉に任命されたのは、結局そのせいなのだ。なぜなら〈双翼〉の任務のほとんどは、神殿の外で行うものだから。
だんだん道が細くなり、左右から木立ちが迫ってきて、いよいよ森の入口へ来たとわかった。この先は月明かりも頼りにならなくなるだろう。ジェンスが木立ちの奥をのぞきこむ。
「どこから入る?」
「待ってくれ。いま調べる」
俺は土の上にしゃがみ、袖をめくって手をついた。この森の木々は世界樹と直接つながっていないが、地中には世界樹の根から恵みが届いている。土の上でそれを探す〈型〉を組むと、声には出さず、唇だけで祈りを唱えた。
地の下に隠れし恵みよ、出でよ。
地中からぼうっと〈綾〉が立ち上った。淡い緑色をした光の球で、蛍のように点滅している。俺は〈型〉を変え、光の珠を細長いリボンに変えた。
迷い子はいずこ?
「あっちだ」
俺は指を組んだまま立ち上がった。〈綾〉は宙に浮かび、ひらひらと森の奥へ進みはじめる。その後を追って歩きはじめると、ジェンスも俺の横へ並ぶ。
「ジェンス、明かりをつけてくれ。この周辺に裂け目はないようだ。魔物の心配はしなくていい」
「だとすれば、獣か」
「ああ」
ジェンスは背中の袋から松明を取り出した。赤い炎が森の中を照らすと、梢のあたりで羽ばたきの音が響き渡る。
俺は〈綾〉を見逃すまいと、先を急いだ。最初のうち、薄緑色のリボンは大きく上下しながら森の奥へ向かっていたが、やがて目標を発見したようだ。ごつごつと節くれだった幹のあいだを迷いなくすり抜けていく。
俺はつられて小走りになった。とたんに、うねうねと地面を這う木の根に足をとられて、転びそうになる。
「あぶない」
俺はジェンスの腕に支えられて我に返った。
「近いんだ。あ!」
「あっちか?」
「止まった。松明をあげてくれ。見えるか? あっちの、幹にでかいコブがついてるでっかい木……あ!」
広げた大木の枝のあいだで影が動いた、そう思ったときだ。ジェンスが俺に松明を押しつけ、暗い一点を指さした。
「獣がいる」
暗闇の中で黄色い目が光っている。野生の生き物は〈綾〉を好む。だが今の場合は、俺たちが捜している人間が目当てかもしれない。
ジェンスが音もなく木々のあいだを抜けた。下草や小枝を踏んでいるのに、まったく音を立てずに歩けるのはいつもながら謎だ。俺は松明を片手にジェンスのあとを追いながら、いつのまにか見失ってしまった〈綾〉を探して、きょろきょろと梢を見回した。そう、たしかさっきはこのコブの近くに……。
低い枝の上で黒い影が動いたのと、獣が咆哮をあげたのは、ほぼ同時だった。すらりと抜かれたジェンスの剣が、松明の赤い光を反射する。獣がまた野太い咆哮をあげた。
「う、うわああああ!」
木の上、太い枝が伸びているあたりで甲高い叫び声があがった。子供の声だ。みると〈綾〉が丸い輪になって、小さな影の上に浮いている。
「そっちか?」
俺は松明で照らしながら声の方向へ躍り出た。
「大丈夫か? 迎えに来たぞ!」
ところが、俺の耳に届いたのは思いがけない拒絶の叫びだ。
「い、いやあ! 来ないで、来ないで!」
まさか、俺たちを盗賊か何かだと思っているのか。急いで声の方へ行くと、木の枝の上に黒い影がいる。俺はそっちに向かって声をあげた。
「あ、あのな、俺たちは怪しい者じゃない。村の人に頼まれて探しにきたんだ。もう大丈夫――」
「来ないでよ、いやだ、いやああああ!」
俺は松明を持ったまま棒立ちになったが、ドシン、という大きな音にハッとして、そっちを向いた。ジェンスが剣にくらいつこうとした獣を、茂みの向こうへ放り投げたのだ。
「ジェンス!」
俺は叫んで、松明を投げた。ジェンスはらくらくとそれを受け取ると、すっかり戦意を失った獣を暗闇の中へ追い立てていく。俺はほっとしてふりむいた。するとさっきの影が木の枝から転がり落ちて、見えなくなった。
「おい、大丈夫か?」
俺はあわてて幹を回りこんだ。大木の向こう側にはぽかりと大きな洞があいていて、その中で輪っかになった〈綾〉がふわふわ浮いている。のぞきこむと子供が座りこんでいた。両腕でぎゅっと抱いて、ぶるぶる震えている。
「獣はいなくなったぞ。大丈夫だから、村へ帰ろう」
「いやだ! あ、あんたたち、父さんが呼んだ人買いだろ?」
人買いだって?
俺はあっけにとられた。
「はぁ? おまえ、何いってるんだ?」
「ぼ、ぼくを馬車で連れて行くんだろう! 知ってるんだ、父さんたちが呼ぶっていって……」
「冗談じゃないぜ」
俺は思わず怒鳴った。
「いったいどういう勘違いだ。俺は神官だ。おまえが帰らないっていうから探しに来たんだよ!」
「神官?」
突然子供は、自分を取り巻いている〈綾〉の光に気づいたらしい。ヒッと顔をゆがめて縮こまった。
「……いや! やめて、殺さないで!」
「はぁ?」
俺は今度こそ呆れて腕を組んだ。そのとたん〈綾〉がほどけ、光の粒になって周囲に飛び散った。
「またわけのわからないことを……」
「だ、だって、長老が……神官は魔物を退治するって」
「なぜ俺がおまえを退治しなきゃいけない。おまえは人間だろう」
「でも……ぼくは……」
背後で足音が聞こえた。ジェンスが戻ってきたのだ。松明の赤い光が洞の中を照らし、うずくまっている子供の姿が見えた。真っ黒の目が松明の炎をうつしてきらめいた。大粒の涙がそこからあふれて、頬をつたう。
「ぼくは、魔物に取り替えられた子だから……だから……」
それ以上は言葉にならず、子供は声をあげて泣きはじめた。