子供が泣きやむまでしばらくかかった。木の洞の中は乾いていたし、もうひとりぐらいは潜りこめるとみて、俺は子供がしゃくりあげているあいだに隣へすべりこんだ。ジェンスは洞の外から松明で中を照らしている。
「落ち着いたか?」
やっと子供が静かになったので、俺はその肩に腕を回した。十歳くらいだろうか。着ているものは粗末だし、真っ黒の髪はボサボサだ。そういえば村人はみな、淡い茶色の髪をしていた。
「俺はユーリ、そっちはジェンスだ。俺たちは大神殿から来た〈双翼〉だ。おまえの名前は?」
「タ、タリン……」
「タリン、何があったか話してくれ。森で迷ったわけじゃなく、逃げて来たんだな?」
「う、うん……」
子供はぼそぼそと話しはじめた。髪と目の色が真っ黒で、両親のどちらにも似ていなかったため、ずっと疎まれながら育ったという。村人はことあるごとに、タリンを魔物の取り替え子だといい、邪険に扱った。そして昨夜、タリンは聞いてしまったのだ。両親が自分を次の馬車に乗せる、と話しているのを。
「それが人買い?」
「年に何度か来る商人で……ぼくをう、売れば、銀貨二枚くらいにはなる、って……」
なるほど、そういうことか。俺は子供がいなくなったと聞いた時の、村長の表情を思い出していた。みんな承知だったわけだ。
俺は目をあげてジェンスを見た。ジェンスも俺を見返して、かすかにうなずいた。
「そういうことなら……タリン、おまえはこれからどうしたい?」
子供は黒い目をみひらいて、口をぽかんとあける。
「これ……から……?」
「俺たちは大神殿の〈双翼〉だ。おまえが村を出ていきたいなら、落ちつけそうなところまで連れて行ってやるくらいならできる。それとも、俺たちと一緒に村に帰ることもできる。そしたらきっと、おまえの親は銀貨とひきかえにおまえを商人に渡すだろうけどな。あとはそう……ひとりで森に残ることだってできるが……」
タリンは地面をみつめて考えこんだが、ふと顔をあげた。
「待って。あんたは神官じゃないの? 『そうよく』って?」
「〈双翼〉は大神殿の役職のひとつだ。神官と兵士の二人組で、魔物退治に行ったりするのさ」
「じゃ、ここにも魔物退治に来たってこと?」
「いや、そうじゃない。おまえの村に寄ったのはまた別の仕事だ」
といっても、旅芸人のように枝から葉を茂らせてみせるのは、〈双翼〉の本来の仕事ではない。とはいえ、俺がやらかしたことのほとぼりが冷めるまでということで、フィシスじきじきに命じられた仕事ではある。
「……神官っていうのは、神殿でお祈りだけやってるのだと思ってた」
タリンの言葉に俺は思わず苦笑する。
「まあな。たいていの神官はそうだ。〈双翼〉はちょっと変わってて……あちこち旅をしているんだ」
村の長老は俺たちが〈双翼〉と聞くといたく感心していたが、あいにくすこしばかり勘違いしてもいた。もちろん、彼のいった通り〈双翼〉は「大神殿の特別な位」である。異能に秀でた神官と優秀な兵士から選ばれ、ヘルレアサの丘でひらかれる祭りの行列では、他の神官や兵士とはちがう正装をまとう。
でも実際のところ、〈双翼〉は神官の階級では下っ端に近い。下級神官よりは上、上級神官ではいちばん下というところ。そしてその任務は、フィシスをはじめとした高位神官から直接与えられることになっている。
〈双翼〉は大神殿の特務要員なのだ。地方の神殿や帝国諸都市の有力者の依頼を受けて、ふつうの神官が浄化できない強力な魔物を相手にすることもあれば、人を害する魔導士について、さまざまな調査を命令されることもある。
神官はみな異能をもつとはいえ、祝福で浄化できないような、強力な魔物に相対できる者はそれほど多くない。それに、魔物にひるまず戦って結果を出せる神殿兵も、そんなにたくさんはいない。だからこそ〈双翼〉の出番となる。
「……村には、帰りたくない……」
タリンがぽつりといった。
「父さんも母さんも、僕のことを……ほんとうの子だと思ってないから……」
俺はまたジェンスと目を見かわした。
「タリン、その服を脱げ」
「え?」
「代わりに俺の服を着て――」
上着のボタンを外そうとしたら、ジェンスがぬっと手を出した。
「いや、俺のにしろ。交換だ」
俺が口を開く前に、ジェンスはもう自分の上着を脱いでいた。その下に重ねて着たシャツを脱いで、タリンに渡す。
「それと髪だ。これで証拠になる」
「髪?」
「ひと房でいい。俺たちはおまえを捜しにきたが、みつけたのは残骸だけだった、というための証拠さ」
ジェンスが短剣を抜いた。タリンはびくっとしたが、怯えてはいなかった。
「……これから、どうしたらいい?」
「本当は一緒に村に戻りたいが……明日まで、ここで待てるか?」
タリンは俺とジェンスの顔を交互に見て、ぎゅっと唇を結んだ。覚悟をきめたという顔つきだった。
「うん」
「一緒にいられないかわり、これをやる」
俺は上着のポケットをさぐって小枝を取り出した。地面に突き立て、両手をついて〈型〉を組む。
人の子を護るために、恵みよ、ここへ集え。
ささやくと小枝の先端から〈綾〉の輝きがあふれた。土と接したところから緑の芽が生え、同時に淡い青色の光が洞の中へ広がっていく。
顔をあげると、タリンが黒い目をいっぱいに見開いていた。
「芽が……」
洞の壁にそって護りの結界ができあがる。見えるのは俺ひとりだが、こうして葉が出てくると、誰にでもわかる。
「神官が得意な手品さ」
俺は小さな葉を一枚摘むと、タリンに差し出した。
「噛め」
「た、食べられるの?」
「噛むと露が出てくる、こっちはそういう手品だ」
俺は指についたしずくを舐めた。タリンは葉を口に入れ、驚いた表情になった。
「甘い……」
「滋養があるんだ。摘みすぎると枯れるから気をつけろ。どのみち明日にはそうなるが」
俺は木の洞から抜け出すと、ジェンスの隣に立った。タリンの真っ黒な眸が、光のささない湖のように俺たちを見返してくる。
「今夜はこの洞の中にいろ。明日迎えにくる。俺たちを信じろ。いいな?」
タリンは膝をかかえてうずくまり、俺たちを上目遣いでみつめた。
「……うん。わかった」
洞をすこし離れてからふりむくと、俺が作った結界は大木の幹をすっぽり覆い隠していた。たとえ獣が戻ってきても、気づかずに素通りするだろう。ジェンスが先に立って木々のあいだを抜けていった。遠くで夜の鳥が鳴いている。