長老に釘を刺したかいがあってか、俺たちはあっさり出発することができた。昨日、月明りをたよりに歩いた道を、今日は馬に乗って進む。乾いた厩でたらふく食べた馬は元気だが、俺は空腹のままだ。俺は馬の背でおやつの干し果物をかじりながら、森へ分け入っていくジェンスにいった。
「位置はわかるか?」
「だいたいは」
「あっちだ」
タリンを守るために使った小枝は消耗品だ。結界は夜明けには消えたはずだが、まだ気配は感じられた。
主人の意思に敏感なモルフォドの馬は、命令しなくてもジェンスのあとについていく。おやつで元気が戻ってきたのはいいが、森の奥へ進むにつれ、俺はだんだん心配になってきた。
タリンはまだあの洞に隠れているだろうか? 魔物がしみだす〈裂け目〉の気配は感じなかったし、仮に兆しがあったとしても、俺の結界があったから広がることはなかったはず。
やがて前方にコブのついた大木が見えてきた。
「タリン? いるか?」
呼びながら馬を降りて、洞のあいた方向へ回るが、返事は聞こえなかった。俺は洞の中をのぞきこむ。空っぽだった。
「迎えにきたぞ!」
小枝は昨夜と同じ位置に立っている。葉は枯れていたが、千切ったあとはある。俺は洞から離れて、あたりを見回した。背後でジェンスの足音が聞こえた。タリンが洞にいないのを察して、大木の反対側へ回ったようだ。俺は洞のすぐ上から伸びている太い枝に手をかけ、よじのぼりはじめた。
「タリン、どこだ?」
頭上でガサガサと葉が揺れた。見上げると葉のあいだに黒い目がのぞいた。
「そこにいたのか。約束通り迎えに来たぞ」
「……ほんとに来たの……」
「なんだよ、嘘だと思ってたのか? 結界は朝までもったか?」
そのまま待っていると、木の葉のあいだから子供の顔がぬっとあらわれた。髪は昨夜と同じくぼさぼさだったが、黒い眸は吸いこまれそうな気がするくらい大きく、まばたきもせずに俺をみつめている。
「……青い」
タリンがぽつりといった。
「は?」
「あんたの目。そんなに青い目、はじめて見た」
「それがどうした? なあ、降りてこいって。俺たちと来ないのか?」
「……考えたんだけど、あんたたちと行ったら、僕はどうなるの……?」
「わからない」
俺は正直に答えた。枝にしがみついている腕がしびれかけていて、さっさと話を終わらせたかった。
「わからんが、おまえが落ちつけそうな場所がみつかるまで、俺たちと一緒に来たらいい。俺も辺境の村の出身なんだ。深く考えるな、どうにかなる」
タリンは何度かまばたきしてから、やっと心を決めたらしい。こくりとうなずくと、そろそろと木を降りてきた。俺も地面へ飛び下りて、しびれた腕をさすった。ジェンスは下で話を聞いていたのだろう。馬を連れて待っていた。
「俺たちの名前は覚えているか? 俺はユーリ、そっちはジェンスだ。ジェンス、おまえの方に乗せてくれよ」
「ああ、その方がいいだろう」
ジェンスがうなずいてタリンの方へ行く。ジェンスもやはり黒髪だが、ところどころ焦げ茶が混じっている。タリンの髪は青みがかった黒で、二人が並ぶとわずかな色のちがいがきわだった。
漆黒の髪と目といえば、異界から降臨した「神子」の特徴だ。大神殿に残された記録にもそう書いてあり、絵や像ではかならず、黒髪黒目の少年の姿であらわされる。
――まさかな。
俺は小さく首をふると、一瞬だけ胸をよぎった、不安とも予感ともつかないものを追い払った。
森のはずれまで来たとき、木陰から細い影が飛び出してきた。俺たちの前に両手を広げて立ちはだかろうとする。
「タリン!」
そこにいたのは村長の家で会った少年だった。村長の息子で、たしか名はネイロス。俺が知るかぎり、タリンがいなくなったことを村で唯一悲しんでいたはず。すると馬の背からタリンが叫んだ。
「ネイロス? なんで……」
「死んでないって聞いたから――おい、あんたたちは、タリンをどこに連れていく気だよ!」
「落ちつけ。騒ぐな」
ジェンスが低い声を出した。迫力のある響きに、ネイロスはびくっとして口を閉ざす。
「おまえの村では、タリンは幸せに生きられない。俺たちがどこかいい場所を探す」
ネイロスは唇をかんだ。
「……そう……かもしれないとは、思ってた……けど……」
「なあ」
ジェンスが重々しい役どころにいるので、俺はできるだけ明るい声を出す。
「心配するなって。タリンは大丈夫だ。そうだな?」
すると、タリンがジェンスの鞍の前からぱっと地面に飛び下りた。急な動きに驚いた馬をジェンスがなだめる。また森へ逃げていくつもりなのかと俺は一瞬恐れたが、そんなわけではなかった。タリンはネイロスの正面に立つと、両手で彼の手を包みこんだ。他の村人とおなじ、薄い茶色の髪をしたネイロスの前で、タリンの黒髪はやけにくっきりして見えた。
「ネイロス、僕は平気だ。この人たちと、行くことにしたんだ」
ネイロスはうつむいたまま黙っていた。しばらくして、くぐもった声が聞こえた。
「……ごめん。俺のせいだ。俺が、おまえを守ってやれなかったから……」
「そうじゃないよ。ネイロス、ありがとう……」
タリンの肩が震えている。俺は目をそらして「もう行くぞ」といった。ジェンスはタリンが馬の背に上がるのを手伝ってやっている。
「昨日の約束を覚えているな? 村の人間にはいうなよ」
ネイロスはうなずいたが、その目はどんよりと曇っている。タリンはうつむいて泣き出しそうだし、俺はどうしたらいいかわからなくなった。
「ネイロス、タリンの落ちつき先がわかったら、おまえにあてて、近くの神殿に伝言を送る。〈双翼〉ユーリからの伝言だ。かなり先のことになるかもしれないが、村の連中にバレないように聞きにいけ」
「……わかった。タリン、おれ、そのうちおまえを探しにいくから」
「うん」
タリンが顔を上げ、ネイロスに手を振った。もういいだろう。
俺は先に森を出て、馬に道を進ませる。ジェンスはすぐに追いついてきた。
「ユーリ、どっちへ向かってる?」
ジェンスがたずね、俺は太陽の方向をたしかめた。
「ひとまず神殿まで戻ろう。次の村に祝福を届ける前に、タリンを身ぎれいにしなくちゃ。そうじゃないか?」
「そうだな」
タリンはジェンスの前で、大きく目を見開いている。涙をこらえているのだろう。
故郷に友だちがいるのは悪くないな、と俺は思った。迎え入れてくれる人間がいれば、いつか帰れるかもしれない。