馬の背がこんなに高いことも、風がこんなに遠くまで届くものだということも知らなかった。タリンは慣れない鞍の感触とひっきりなしに続く揺れに耐えながらも、移り変わる景色に目を見張っていた。
馬の手綱は浅黒く日焼けした手が握っている。すぐうしろにいるその兵士の鼓動が、振動とともにタリンの背中に伝わってくる。兵士のマントには翼のしるしがついているが、フードはかぶっておらず、高い位置で結んだ黒髪があらわになっている。黒髪といってもタリンの、炭を流したような不吉な黒ではなく、日が当たると濃い茶の筋が入っているのがわかる。
「ジェンス、そろそろ休憩! 一度止まろうぜ!」
隣を行く馬から陽気な声が響いた。兵士と同じしるしのついたマントにフードを深くかぶっているが、金髪がこぼれて襟にかかっている。タリンをみつめる目は深い青色だ。タリンはこんな目の持ち主にこれまで会ったことがない。
「この上り坂の終わりまで行く」
「おわりぃ? この坂、どこまで続いてるんだよ」
「上まで行けば神殿が見える」
「え、もうそこまで来てるのか?」
「ああ。そこで休憩だ」
頭上で交わされる会話をタリンはぼんやり聞いていた。
タリンは生まれてこのかた、馬に乗ったことはもちろん、隣村へ行ったこともなかった。他の子供たちが声をあげてはしゃいでいる祭りの日も、タリンは裏の畑で草取りをしていた。長老はタリンを魔物の取り替え子だといい、両親もいつのころからかそれを信じていて――実はタリン自身も、本当にそうではないかと信じかけていたのだ。
そうでなかったらどうして、自分だけこんなにも、他の人と
それでもタリンの心の中には、実はずっと、本当はちがうのだと信じたい気持ちがあった。いつか両親や他のみんなが、当たり前のように自分をまっすぐに見て、話したり笑いかけてくれる日がくるのではないかと、心のどこかで信じていた。もしかしたら、そう思えていたのはネイロスのせいかもしれない。彼だけはなぜか、タリンをまっすぐ見てくれて、他の子供と同じように接してくれたから。
でもその希望は、両親の話を盗み聞きしたあの日に一度、砕け散ったのだ。だからタリンは夜の森へ逃げ出した。そこなら誰も探しにこないと思ったから。もう自分がどうなっても、かまわないと思ったから。
ところがこの二人はタリンを探しにやってきた。いや、
タリンを村から連れ出した二人は、外見も性格もぜんぜん似ていない。ジェンスは強くてたくましい兵士で、日焼けした顔立ちは勇ましくてかっこいい。あまりしゃべらないけれど、ひとたび口を開いたときには大事なことをきちんと話す。ユーリはジェンスよりひとまわりは細くて、日の光にきらきら光る金髪に、深い青い目をしている。女の人にはちっとも見えないけれど、タリンはこんなにきれいな男の人を見たことがない。
そしてユーリはとてもおしゃべりだ。馬に乗って移動しているあいだも、休んでいるときも、いつも何か話したいことがあるみたいだ。それにしょっちゅう、口実をみつけて休もうとしている。
でもそれは、ユーリが不思議な力をもつ神官だからなのかも。タリンは森の木の洞で、ユーリの力を目の当たりにした。
森の木の洞ですごした一夜は、タリンにとってとほうもなく恐ろしく、それにもかかわらず魅惑的なときだった。ユーリが地面に突き刺した小枝からみるみるうちに生えた葉っぱは、口に入れると露があふれた。そしてユーリがいった通り、夜明けには枯れてしまった。もしも二人が戻ってこなかったとしても、タリンはいつまでもこのことを覚えていたにちがいない。
二頭の馬はゆるい坂をぽくぽくと上っていく。ようやく丘の上にたどりついて、同時にとまった。
「おお、いい眺めだ」
さっきの文句はどこへやら、ユーリはその先に広がる景色を見て満面の笑顔になった。
「タリン、麦畑の向こうに町が見えるか?」
「う、うん」
「今日はあの町の神殿まで行く。飯にも風呂にも、ちゃんとしたベッドにもありつけるぞ! やったな!」
「う、うん……?」
一行は金色の麦畑を見下ろしていた。その先に小さく町を囲む石の壁が見える。ユーリのはしゃぎっぷりにタリンがとまどっていると、頭の上でジェンスがくっくっと笑った。ユーリは青い目を見開くと、不満そうに口をとがらせた。
「ジェンス。何がおかしいんだよ」
「いや、べつに?」
「何がべつに、だよ。すました顔しやがって、おまえだって風呂に入れるのが嬉しいくせに。たまには俺みたいにはしゃいでみせろ」
「さあな」
「おい! そういうとこだぞ!」
まったく似ていないユーリとジェンスは、村を出てからというもの、今みたいなやりとりをしょっちゅうやっている。でも気が合わないわけじゃなくて、本当はとても仲がいい。タリンには、二人が見えない糸でつながっているように思えた。
マントに翼のしるしがあるユーリとジェンスは、馬に乗ったまま平然と門を通り抜けた。広場の奥にある石造りの神殿の前で、勝手知ったる様子で馬を下りたが、村育ちのタリンにとって、石の壁に囲まれた町に足を踏み入れるのは初めてのことだ。広場や通りがごった返すほど人でいっぱいになっているのを見るのだって、初めてだった。
タリンはおどおどしながら二人について神殿の中へ入った。回廊に囲まれた広場の中央に木が一本立っていて、ユーリとジェンスは慣れた足取りでそちらへ向かった。すると神官の衣を着た男が近づいてきて「その子供は?」と口にしたので、タリンはハッとその場に立ち尽くした。
ユーリが立ち止まり、鋭い声でいった。
「その子は俺の侍者だ。道中いろいろあってそんな格好になっているが、俺たちもひどいもんだろ?」
声をかけた神官は一行をちらりとみて、同情めいた表情をうかべた。
「〈双翼〉の方々。たしかにお疲れのご様子ですね」
「ああ、ひどい旅だった。一晩だけここで休ませてもらうつもりだ。神殿長にもお会いしたいが、その前に身ぎれいにしたい」
「申し訳ございません。神殿長は町に用がありまして……」
ユーリはかすかに眉をひそめた。
「では定刻の祈りは誰が?」
相手の神官は卑屈な表情を作った。
「定刻の祈りは不肖わたくしめが代行しております。〈双翼〉の任務、ご苦労様です。お休みになるときはそちらの棟の空き部屋をお使いください。食堂と、それに浴場はその先にあります」
神官のさした方向は人影もまばらだったが、時おり、忙しそうに立ち働く人々とすれちがった。全員がパリッとした汚れのない服を着ているし、髪もきれいになでつけている。タリンは居心地が悪かったが、ユーリとジェンスは気にする様子もなく、廊下をすたすた歩いては左右の扉をのぞきこんだ。
「空き部屋って、一人部屋ばかりじゃねえか」
「……ここでいいだろう」
ジェンスがそういって角の大きな部屋に入った。がらんとして何のかざりもなく、壁に寄せて巨大なベッドがあった。その横に長椅子、別の壁際に箪笥がひとつ、入口に近いところには小さなテーブルに椅子がふたつ。
ユーリはマントを長椅子に放り出すと、ベッドの端に尻をのせて靴の紐を解きはじめた。ジェンスがユーリのマントを拾い、壁に吊るす。そのあいだにユーリは脱いだ靴を床に放り出し、大きなベッドにごろんと寝そべると、いきなり天井に枕を投げた。
「タリン、見ろ! 広いベッドだぞ!」
ジェンスは表情も変えずにユーリの靴をそろえている。タリンはさっきから聞きたくてたまらなかったことをたずねるチャンスがきたと思った。
「ユーリ、侍者って何?」
「あ? ああ、神官の身の回りの世話をする人間のことだ。俺も神官見習いになる前はそうだった」
「ユーリも?」
「そうだ、タリン、服をもらってこい」
「服?」
「そ。さっき廊下で、布を運んでいる人とすれちがっただろう? そいつに、入浴の前に神官と侍者の服が一揃いずつ必要だ、というんだ」
「……いいの?」
「大丈夫だ。何か聞かれたときは〈双翼〉のユーリに命令されたっていえ。それ以外は何も答えなくていい」
「わかった。あの、ジェンスの分は?」
「神殿兵は別枠だから気にするな。よし、行ってこい!」
ユーリはニコッと笑い、その笑顔は本当にきれいだったけれど、タリンはまだ不安だった。ちらっとジェンスの方をみると励ますようにうなずいたので、きっと大丈夫なのだろうと思い、廊下に出た。
すこし歩くと布をたくさん籠に入れて運んでいる人に出くわした。いわれた通りに話すと、タリンを隅の小部屋へ導き、棚から畳んだ服をとって渡してくれた。
「他にも何か必要だといわれたら、いつでも声をかけて」
「あ、ありがとうございます」
「招集されたばかりのようだね。すぐに慣れるよ。あの神官様は優しそうだし」
招集? 何のことかわからないまま、タリンは渡されたものを抱えて廊下を戻った。ドアの向こうからユーリの声が聞こえてきた。
「……ここはさ、神殿長が留守だといってただろ? それが気になるんだ。異能で招集がかかったわけじゃないし、合いそうなところがみつかればそれで……」
タリンはドアを開けた。ユーリはベッドにうつぶせになっていて、ジェンスがその背中を揉んでいる。思わず回れ右をしかけたが、ユーリはもう起き上がっていた。
「お、もらえたか?」
「……これでいいの?」
ユーリは服の束を広げて満足気な顔をすると、いきおいよくベッドから下りた。
「そうだ。よし、風呂へ行くぞ」