ところがそのあと連れていかれた神殿の浴場は、タリンがこれまで知っていたぬるい湯をためた桶とはまるでちがうものだった。だから腰布一枚になってユーリのあとについていったのはいいが、途中で何度か逃げ出したくなり、実際一度逃げ出しかけた。
なにしろ熱い蒸気の出てくる部屋や、薬の匂いのする浴槽の部屋などいくつか連れ回されたあと、ごわごわする布で足の先までこすられたり、トゲトゲのブラシで頭をごしごしやられたりするのだ。しかしユーリの手から逃げ出せても、その先に必ずジェンスが待ちかまえている。
結局タリンはあきらめてユーリの好きなようにさせ、最後は三人ならんで、広くて温かい湯船に浸かった。でもこれで終わりではなく、浴室を出たあと、ユーリはタリンの髪をあごのあたりで切り揃え、爪も切って、やすりで磨いた。
「ほら、鏡を見ろ」
やっと解放されて大きな鏡の前に立つと、黒髪黒目の子供がタリンを見返している。なんだか自分じゃないみたいだった。ボサボサだった髪はまっすぐになって、やけに白く見える顔のまわりを取り囲んでいる。
ユーリは満足そうにうなずいている。
「これならフィシスだって文句をいわないだろ」
「フィシス?」
「俺の師匠だ。ヘルレアサの丘の大神殿にいる」
つまり自分は神殿で生活することになるのだろうか?
タリンは聞き返そうか迷ったが、ジェンスが背後からぬっと顔を突き出して「ユーリ、髪」といったので、また口をつぐんだ。ユーリは「自分でやるよ」と答えたが、ジェンスは黙ったままユーリの髪を拭き、櫛を通している。
くしけずった金の髪が背中で揺れる様子に、タリンは思わず見とれた。ジェンスの髪は頭のてっぺんできちんとまとめられている。
廊下に出るとユーリは呑気な声で「腹減ったな」といった。
「厨房で何かもらってきて部屋で食べよう。神殿長に挨拶しようと思っていたが、留守だしな」
「定刻の祈りは?」
ジェンスがたずねると、ユーリは青い目であさっての方向を見た。
「俺は関わらない方がいい。ろくなことにならない」
「たしかに」
「……素朴に肯定されると傷つくんだが」
「自分でいったくせに」
タリンにはなんのことかわからなかったが、二人は言い争っているわけではなかった。
そのあとは厨房へ行き、食べ物を盆に山盛りにしてもらった。元の部屋に運びながら、タリンはふと不思議に思った。
「神殿って、いつもこんなふうに寝る場所や食べ物をもらえるものなの?」
ユーリはこともなげにいった。
「俺たちは〈双翼〉だからな。どこの神殿でも便宜をはかってもらえる。巡礼の場合は……神殿によるな。ま、食おう」
食べ物はタリンにとって珍しいものばかりだったし、どことなく変わった風味があった。最後に甘い蜜菓子まであって、タリンは口をいっぱいにあけて頬張った。
「なあ、タリン。これからどうしたい?」
ユーリがテーブルに肘をついていった。
「俺たちは明日にはこの町を発つつもりだ。もしおまえがこの町で、どこか身をよせるところ……そうだな、職人の徒弟とか、町の店の下働きとか、そういうところをみつけたいなら、明日の昼までに俺たちがさがしてやる。神殿の〈双翼〉が後見についていると知ったら、そんなに邪険に扱われないはずだ。神殿でもいいんじゃないかと思っていたが、ここはちょっと……俺が気に入らないところがある」
こんな話をされるとわかっていた、とタリンは思った。あたりまえだ。ユーリとジェンスは夜の森から自分を連れ出して、ここまで連れてきてくれた。でもこの先は――
タリンは答えに迷って黙っていた。ユーリとジェンスはちらりと目を見かわした。
「それとも、しばらく俺たちと一緒に来るか? もっと遠くへ行けば……髪や目や肌の色がちがう人間がごちゃごちゃ暮らしてる都市もある。腕っぷしが強くなりたいなら、エオリンっていう手もあるぞ」
ユーリがそういったとたん、ジェンスが吹き出した。
「そこでエオリンを出すか」
「悪いか?」
ユーリはムッとした顔でいってから、タリンの怪訝な目つきに気がついたようだ。
「ああ、エオリンっていうのはジェンスが育ったところだ。傭兵団だ」
「傭兵…団?」
「ジェンスはみなしご――みたいなもので、エオリンに拾われたんだ」
タリンはジェンスをしげしげと眺めた。神官と共に行動する兵士が、まさかみなしごだったとは思わなかったので。だがユーリはタリンの視線を誤解したようである。
「な、ずるいって思うだろ? みなしごでも傭兵団で育てられたら、こんなにでかくなれるんだぜ」
「ユーリもみなしごなの?」
「いや。でも、タリンくらいの年に親が死んで……ライオネラへ行った」
「ライオネラって」
「神殿都市ライオネラ。大神殿のある、世界樹のお膝元だ。俺たちはそこから来た」
「じゃあ、最後はそこに帰る?」
「そのうちな。でもしばらくのあいだは旅暮らしだ。俺たちについてくるなら、また一日中馬に乗ることになるぞ。それに俺の仕事を手伝ってもらう」
「ユーリの侍者ってこと?」
タリンの言葉を聞いて、ユーリはなぜか照れくさそうに笑った。
「まあ、そんな感じかな」
「ぼくは、そっちの方がいい。一緒に行きたい」
ユーリとジェンスはまた目をみかわして、同時にタリンへ視線を戻した。ユーリがパン、と両手を打ちあわせた。
「よし。じゃ、そうしよう」
ジェンスがすっと右手を伸ばし、タリンの右手を握った。
「よろしくな」
「う、うん」
「おい、おまえ手が早いぞジェンス! 俺も!」
「う、うん……?」
ユーリが左手を伸ばしてきたのでタリンもそうして、三人で手をつなぐという妙なことになった。それを見たユーリは声をあげて笑いはじめ、ジェンスも笑みを浮かべて、タリンもつられて笑ってしまった。
「さてと、誰がどこで寝る?」
ようやく笑いをおさめたユーリが目尻をぬぐいながらいう。笑って涙を流すこともあるなんて、タリンはこれまで知らなかった。
「ベッドにふたり、長椅子にひとりだ」
「ぼ、ぼくは長椅子でいいよ。小さいし」
タリンがあわててそう答えると、ユーリはちっちっ、と舌を鳴らした。
「何いってる。大きさなんていいはじめたら、ジェンスはかならずベッドになっちまうだろ? それはずるいし、おまえは初めての馬旅で尻がさんざんなはずだ。ジェンスとタリンがベッドで俺が長椅子で寝るか、俺とタリンがベッドで、ジェンスが長椅子で寝るかだ」
「で、でも……ジェンスの足、長椅子からはみだしちゃうよ」
タリンが思わずそう返すと、ユーリはジェンスの背中をバシッと叩いた。
「タリンが優しくてよかったな、ジェンス。俺が長椅子らしい」
しかしジェンスは落ちつきはらった表情で「ユーリ、おまえの寝相であの長椅子は狭すぎる」といった。
「なんだって?」
「三人ともベッドに寝ればいい。この大きさなら大丈夫だ」
「なんだよ、じゃんけんしようと思ったのに」
ユーリは口をとがらせたが、異論があるわけではないらしい。話は終わったというようにジェンスが立ち上がる。
「もっと毛布がいるな。探してくる」
「よろしくな」
ユーリはドアへ向かうジェンスに手を振り、食器を盆に積み上げている。
やっぱりこの二人、すごく仲がいい。
「ユーリとジェンスは恋人同士なの?」
「え?」
ユーリはタリンを向き直り、その拍子に食器がテーブルから落ちた。
「お……っと」
ユーリはあわてた顔で床にかがみこんだ。食器を盆に戻しながら、下を向いて早口で答えた。
「俺たちは〈双翼〉だ。つまりその……仕事の相棒だ。もちろん、友だちだけどな。ずっと前からの」
それだけ? タリンはすこし納得いかなかったが、それ以上はたずねないことにした。この二人についていくことになったのだから、それだけでよかった。