タトゥスリーはごくふつうの村だった。井戸の横に、数年前ここをたずねた神官が植えたという聖なる枝の茂みがあった。高く伸びはしなくても青々と茂っていたのが、春の水害のあとだんだん勢いがなくなり、この十日はすっかり茶色に枯れていたという。
「水を汲みにきたら急に青々と茂りはじめて、いったい何が起きたのかと」
「もう村を捨てるしかないのかと思っていたところでした」
井戸で泥だらけの顔や手を洗わせてもらい、村長の家に招かれて、俺たちはようやく人心地つくことができた。俺はシャアランの娘ララアをはじめ、ひっきりなしにやってくる村人といつもの猫をかぶって話し、彼らの話にも耳を傾けた。
「神官様がいらしてくださったのはラルズの嫁のおかげだと」
「切り通しの魔物が消えたのなら、湖沿いの道をせきとめている土砂も両側から運び出せる」
「だからいったろう、退魔師がどうなったところで関係ないと」
どうもこの村ではここ数年、根の神殿を崇める者と古い七枝信仰を持ち続ける者のあいだでいさかいが起きており、その影響で春の大水のあと、長年湖の近くに居を構えていた退魔師が追放されたらしい。
(実は、娘が嫁に行ったときにいろいろあったものですから、当地の神官様にたずねるのも……)
ひょっとしたらシャアランの話もこれに関係あるのかもしれない。魔物が出るようになってしまったのは裂け目をつぶしていた退魔師を追放したからにちがいないし、聖なる枝が枯れてしまったのは切り通しの道にいた魔物が力をつけたからだろう――などと俺は考えたが、村人にそんな話はしなかった。実のところ、俺はタリンのことで頭がいっぱいだったのだ。
その日は村に泊めてもらうことになった。俺は正午と夕刻に井戸の横で定刻の祈りを捧げ、タリンはこれまで同じように俺の侍者をつとめたが、早朝に起こったことは俺の力だと思いこんでいる。本当にまったく覚えていないのだ。
村長の家で夕食をごちそうになったあと、俺はタリンをさっさと寝床に追いやった。ぐっすり眠っているのをたしかめて外に出る。切り通しの道へと歩いて行くと、ついてきていたジェンスが横に並んだ。
「ジェンス、タリンのことだが……」
ジェンスは小さくうなずいて先をうながした。俺はそっと周囲を見回し、誰もいないことをたしかめた。
「……俺としてはまさかと思いたいが……タリンは神子、なのかもしれない」
ジェンスは冷静な声でいった。
「枯れた枝を蘇らせたから?」
「ああ。それに黒髪黒目だ。覚えているよな、ジェンス? この旅の、俺たちの任務」
ジェンスの答えは簡潔だ。
「ああ。神子の探索」
「フィシスはどういってた?」
「大神官殿の神子出現の啓示を受けて、神子と思しき者を探せと」
そう、その通り。俺だって本当はよく覚えている。
(……おまえたちに神子探索を命ずる。外部の者にはそれと知られないよう、世界樹の祝福を届けながら、神子と思しき者を探すのだ)
「タリンが神子なら……」ジェンスは穏やかに続けた。「少なくともその兆しがあるなら、ライオネラに戻るのが順当だろう」
俺は小さくため息をついた。
「そうだよな」
俺たちは村はずれに来ていた。切り通しの道はすぐそこだ。通り抜けたところにはあの聖なる木がある。タリンが小枝から、それも一度枯れた小枝から再生した木だ。
「ユーリ、どうしたんだ? ライオネラに戻りたくないのか?」
立ち止まった俺にジェンスが不思議そうな声でたずねた。
「まさか、そんなことはない……ただどうも……気が進まないんだ」
俺はそう答えて道の向こうを透かし見る。ジェンスは怪訝な顔で眉をあげた。
「なぜだ? どんな問題が?」
問題? そんなものはない――はずだ。
タリンが本当に神子なら、大神官ギラファティは大喜びするだろう。大神殿の高官たちも、俺がこれまでやらかしたことなんか忘れて褒めたたえてくれそうだ。
でもフィシスは――どうだろう。フィシスは昔から、大神官のギラファティと、彼が神子探索に執着していることに警戒していた。俺の夢――この世界に転生した異界の魂が見せる不思議な夢のことも、ギラファティに知られないようにしろと、しつこく教えてきた。
神官の異能は、異界からこの世に転生した魂のかけらがもたらすものだ。でもそれはしょせん「かけら」にすぎない。しかし神子はちがうらしい。神子は異界から完全な魂をもってこの世界に降臨する存在だ。
しかしタリンは本当に神子なんだろうか? タリンには生みの両親がいるのだ。たとえタリンを「魔物の取り替え子」と思っていたとしても。
自分が何に迷っているのかわからないまま、俺はぼそぼそといった。
「問題っていうか……タリンは自分がやったことがわかってないだろう? また同じことがやれると思うか? 何かのまぐれってことはないよな……」
「まぐれか」
ジェンスの声は変わらず穏やかだ。
「ユーリ、おまえの場合はどうだった?」
「俺? それならおまえもよく知って――」
途中までそういいかけて、俺はふと口を閉ざした。俺の異能の覚醒は段階を追って、数回に分けて起きた。でも俺はかなり長い間、自分ではそのことに気づかなかったのだ。
「……やっぱりライオネラへ連れていくしかないな」
まだすっきりしなかったが、俺は自分にいいきかせるようにつぶやいた。切り通しの道に背を向ける。
「とにかくフィシスに知らせて……」
ジェンスが俺の腕をとった。
「ユーリ、気が進まないならタリンに聞いたらどうだ」
「タリンに?」
「ああ。神子の件だけじゃない、ライオネラへ行きたいかどうかも。タリンは俺たちを信じているんだぞ」
たしかにそうだ。俺は小さく吐息をついた。ジェンスが話を聞いてくれるから、俺はまともにものを考えられるようになる。
「明日、出発してから話すことにしよう」
「それがいい」
その夜、俺は夢を見た。
左右は白い壁、床は淡い緑色をした長い廊下を歩いている夢だ。ここには何度も来たことがあって、俺はどうすればいいか完璧にわかっている。階段を上って角を曲がり、柔らかな色あいの扉をあける。淡い水色の衝立の横に立つと、その先に白い枠に囲まれたベッドが見える。俺はすこしためらう。自分がここにいるのが正しいことなのか、自信がない。やっと一歩踏み出すが、今度はベッドを直視できない。またしばらくためらって、やっと、そこで眠る人を直視する勇気をかきあつめる。
俺はベッドをのぞきこむ。真っ白い枕の上で黒髪黒目の子供がぱちりと目を開いたと思うと、そこから真っ黒の闇があふれだして……。
タリン?
口に出してはいなかったと思う。俺はがばっと体を起こした。
今のはなんだ? いつものあれか? 前世の――
「ユーリ。大丈夫か」
低い声でささやかれてびくっとした。暗闇の中で肩に回る腕を感じる。そういえば今日は、ジェンスと同じベッドで眠っていたのだ。村長は俺たちのために自分の寝室をゆずってくれたのだが、大きなベッドひとつしかなく、先に眠ったタリンは反対の隅に敷かれた藁布団の上で丸くなっていた。
「起こしちゃったな。ごめん」
俺は小声で返した。まだ真夜中にちがいなく、ジェンスの顔は見えない。触れている手からその体温を感じるだけだ。膝にずりおちた上掛けはふたり分の体温でぬくもっている。
「どうした?」
またジェンスがいって、がっしりした腕で俺の体を支えた。
「……なんでもない。変な夢を見た」
「夢……どんな?」
「わけがわからないやつ。たまに怖いこともある……」
肩に腕を回されたまま、うつむいてつぶやく。いつもならこんなこと、絶対にいわないのに、なぜか口から出てしまった。すると背中に回った腕にまたすこし力がこもって、ジェンスは赤ん坊をなだめるように俺を抱きこんだ。
「今も?」
「まさか。夢は夢だ。目が覚めればべつに、怖くなんか」
「それならよかった」
ジェンスの手が髪を撫でてくる。俺はちょっと恥ずかしくなった。〈双翼〉になってからというもの、ジェンスは俺の世話を焼きすぎる。でもこんなのは、まるで恋人同士みたいで――
ぱっと頬が熱くなった。暗闇に慣れてきた目にジェンスの顔の輪郭だけが見える。俺は肩を揺らしてジェンスの手から逃れようとした。
「寝よう。喋ってるとタリンを起こしちまう」
「……ああ」
俺たちは同時に横たわり、俺は寝返りをうってジェンスに背を向けた。上掛けがひっぱりあげられ、俺の肩をすっぽりつつむ。すぐそこにある体は俺のための砦、俺をいつも守ってくれる砦だ。
俺はジェンスの寝息を聞きたいと思ったが、結局先に眠ってしまったのだろう。気がつくと朝になっていて、タリンが藁布団に座って俺たちを見ていた。つまり、ジェンスの腕にがっしり抱きこまれている俺を。
「おはよう、ふたりとも」
「あ、ああ……」
俺はジェンスの腕を引きはがし、あわててベッドから飛び降りた。