「もう!京介さん!!あなた、何て事をしてくれたのっ!!」
芳子は、これでもかと叫ぶと、この世の終わりを迎えたかのように力なくテーブルに突っ伏した。
「芳子、はしたないぞ!」
「京一さん!はしたなくもなりますよ!もう、私は、余りの事に、力が抜けました」
男爵夫婦は、ひたすら言い争っている。
「……私には、私の考えがありますので」
岩崎は、言うと、軽く一礼している。
繰り広げられている光景は、当然、月子には理解できないものだった。
岩崎男爵家の内輪の話、それも、かなり重大な事なのだろうと、察しはついたが、さて、自分はどうすればと、うつむくしかなく、それは、隣に座るお咲も同様なのだろう、大人達の顔色を伺いながら、小さくなっていた。
「ああ、月子さん、ごめんなさいね」
前に座る月子とお咲の様子に気がついた芳子は、力なく、詫びの言葉を言いつつ、あっ、と、叫んだ。
「京一さん!西条家!」
「おお!そうだ!」
男爵夫婦は、頷き、岩崎を見る。
二人の視線に岩崎は、たじろぎつつ、なんですか、と、言い返す。
「なんですかって、京介さん!西条家が、どうゆう家か分かったでしょ!」
ええ、と岩崎は、芳子へ返答するが、言わんとすることが分からないようで、さっと、兄を見た。
「辞退の旨は、後で話すとして!西条家だ!挨拶に行かねば!」
「……ですが、兄上、あちらには、ろくでもない義姉が居るわけで……」
「だからこそ、挨拶しておかないと!京介さん、このまま、黙って月子さんと一緒になるつもり?!」
「は?黙って……は、流石に。祝言ぐらいは挙げるでしょう……普通……」
言って、岩崎は、うっと、言葉を詰まらせた。
「吉田!」
男爵が、執事を呼ぶと、出番を待っていたかのように、初老の執事が、ドアから顔を覗かせた。
「聞いただろう?祝言までの準備を、任せる」
「はい、かしこまりました、旦那様」
吉田はそつなく答えるが、では、ここで、一曲、などと言い出した。
何の事かと、吉田の言葉に一同は、首をひねるが、それを見計らったように、吉田は、さらりと言い放つ。
「……ですから、西条のお嬢様からは、釣り書を頂戴しながら京介様は、何も用意しておりません。いくら、互いに身元がばっきりしているとはいえ、それは、それ、これは、これ、という話。私が思うに、京介様の釣り書は、まさに、チェロの演奏ではなかろうかと、チェロが、京介様の人となりを表しているのではないでしょうか?」
そこまで言うと、吉田は皆へ会釈した。
おお!と、男爵は、唸り、芳子は、まあ!と、瞳を輝かせ、吉田の言う通りだと納得しきっている。
「……だから、この屋敷に来るのは嫌なんだ。茶番めいたことを皆でよってたかって!」
岩崎は、どっちが、堂々巡りをおこなっているのかと、ごちつつも、吉田の強引な誘いから逃げられないようで、演奏すればいいんだろうと、怒鳴り散らしながら、部屋を出た。
「うん!演奏の準備を、私も手伝うべきだな!」
男爵も、岩崎の後を追うように部屋を出るが、瞬間、芳子へ向かって、目配せする。
それを見のがさなかった芳子は、ふふっと、笑いながら、
「うるさいのは、消えたわね。月子さん、これからのこと……というよりも、京介さんの事情を、お話しておくわ」
意味ありげに、月子へ言った。
どうして、吉田が演奏などを勧めてきたのかわからないけれど、でも、助かったと、芳子は、今までとはうって変わって、落ち着きはらった様子を見せた。
「月子さん、少し、驚くかも知れないけれど、全てを話すから、聞いて欲しいの」
そして、お咲へ、退屈だろうけどもう少し辛抱するように言い聞かせる。
月子は、感じが異っている芳子に、もしや、困難な条件を出されるのではないかと、緊張した。
「……西条家の事、つまり、月子さんの事はあらかじめ調べさせてもらってたの……。だから、おおよその事はわかっていたんだけど、話を聞くと、想像以上だったわ」
なるほど、と、月子は、思う。仮にも見合い。佐紀子ですら、相手方は、西条家の、月子親子の事を調べた。それが、男爵家なら……。前もって、月子の事を調べるのは、当たり前の事だろう。
「……申し訳ございません。奥様。私は……連れ子なので、西条家の人間とは言いきれないのです。なのに、もっともな顔をして……」
月子は、頭を下げた。西条と名乗ってはいるが、結局は、うどん屋の娘なのだから。
「ああ!ちょっと、待って!そうじゃないの!月子さんが、西条家に居るというのは、分かったんだけど、どこの女学校を出たとか、花嫁修業をしているとか、普通、耳にする話が、一切出てこなくて……やっと、月子さんの話を聞けたのよ。そこで、とても、素直な働き者の娘さんだと、聞かされてね……物を大切にする、とも、言われたわ……」
芳子は、西条家の裏方へ出入りする、青菜屋、油屋などの、小売り店主達から、なんとか月子の事が聞けたのだと言い、その評判から、ちやほやされているお嬢様育ちではなく、しっかりと家を守っている娘さんだと理解して、この話に乗る気になったらしい。
「こちらは男爵家でしょ?時には、その地位に目が眩む家もある。そして、財産を狙って来る家もある」
とにかく、見合いの話が出て来るたびに、欲に乗じて近寄ってくる家ではないかと、男爵夫婦は、弟、京介の相手をふるいにかけてきた。
「……だけどね、起こっちゃったのよ。京介さんが、好きな人を連れて来たの」
いきなりの、芳子の告白に、月子は、息が止まりそうになる。
岩崎は、月子よりも、身分があり、年齢も上なのだから、何も驚く事ではないはず。と、月子も、頭の中ではわかっているに、どこか、息苦しくなり、胸の苦しさを感じた。
「相手は……異国人。京介さんが、留学中知り合ったそうなの。京介さんが、呼び寄せちゃった訳。当然、京介さんのお父様、前岩崎男爵は、お怒りになって、京介さんを幽閉したの。やって来た女性と引き離すためにね……。そして、いくらかまとまったお金を渡して、相手を、帰国させた……」
まあ、そんなこんな、色々あって、と、芳子は、息をついた。
「とにかく、あの時は、大変だったわ」
そこまで言うと、芳子は、月子へ謝った。
「奥様?!」
「やだ!奥様なんて!芳子って呼んで!ん?お姉様の方が正しいのかしら?!」
ふざけながらも、芳子は、嫌な話を聞かせてしまったと、月子へ再度詫びてくる。
「……月子さん。この話は、もちろん、過去のこと。だから、割りきってもらえないかしら?」
でも、肝心の……、と、そこまで言うと、芳子はだまりこんだ。
つまり……。
まだ、その話には、深い訳があり、それ以前に、岩崎が、過去として処理できておらず、その、女性の事を思い続けているのでは……。
ふと、そんなことが、月子の脳裏に浮かび、ふうっと、気が遠退きそうになった。
「月子さん?大丈夫?顔色が悪いわ!」
やっぱり、この話はしなかった方が、と、芳子も、気まずそうに、月子を見ている。
「……い、いえ、だ、大丈夫です」
いつかは、誰かから聞かされる話だからと、芳子は思ったに違いない。そして、月子へ、あらかじめ聞かせておいた方が良いと、判断したのだろう。
芳子は、芳子なりに、先々の事を考えているのだと、月子は、自分に言い聞かせるが、同時に、岩崎とは、同じ家で暮らすだけで、自分は、女中のように、岩崎の世話をするだけ、と、言い訳のようなことを思い浮かべてもいた。
そして、月子の胸は、相変わらず苦しくて、テーブルの下では、膝が小さく震えている。
なぜ、体がそんな状態になっているのか、月子も分からない。
芳子に見られない様、小刻みに震えている膝を両手でしっかり押さえることしかできなかった。