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第24話

ですから!わかっております!と、扉の向こう側、廊下から、岩崎の大声が響いて来た。


「あら!もう、来ちゃったわ!お咲ちゃん!お願い!」


芳子の問いかけに、お咲は返事をすると、手鏡を月子へ渡した。


女中数人がかりで、月子は、着替えさせられ、髪も結い、薄化粧まで施されている。


お咲は、仕上がりを月子へ見せる係だと芳子に言いくるめられて、ずっと手鏡を持ち、月子の支度が終わるのを待っていた。


やっと、自分の出番が来たと、お咲は、喜び勇んで手鏡を差し出している。


月子の背後では、女中がひとまわり大きな手鏡を持ち、合せ鏡にして、月子の後ろ姿を写し出してくれていた。


お咲に渡された鏡の中の姿を見て、月子は、あまりの変わりように言葉が出ない。


小さく写る、後ろ姿も、見事と言うべきか、月子が編んでいたお下げ髪を、束ね上げ、毛先には、花柄の刺繍がされた大きなリボンを留め、はなから、この形に結い上げた様にしか見えないように仕上げられていた。


「取り急ぎ、ですので、誤魔化しておりますが、なんとか、まとめあげました」


背後に立つ女中が、申し訳なさそうに言った。


「まっ、仕方ないわ。時間がなかったのだから。でも、これだけの仕上がりなら、申し分なし!ああ、着物が、少し大きかったわね。袖丈が、長いわ……、でも、月子さん、大丈夫よ!飛び柄は、総刺繍ですからね。これなら、佐紀子とやらも、けちは、つけられないから!」


とにかく、まかせておきなさいと、芳子は、やけに佐紀子を意識している。


ノックと共に、ご談笑の所申し訳ありませんが、と、吉田が執事ぜんとして入って来た。


「ああ、吉田。こちらは、準備できてますよ」


芳子の返事に、吉田は頷くと、ドアを開けたまま、廊下を伺った。


無言のまま、岩崎が大きな楽器を携え、入って来る。


その後ろを、男爵が続いて来るが、月子を見ると満面の笑みを浮かべた。


「私のお着物だから、月子さんには、少し寸法が大きかったみたい。足袋もね、たぶついているけど、そこは、着丈で誤魔化しているから……とにかく、この白地の小紋は、目を引くでしょ?」


リボンを結んだような、紅色と黒がからみあう、熨斗のしもんの周りに、梅、牡丹、菊などの花がちりばめられている。


身頃いっぱいに、並ぶそれらの柄は、全て刺繍という、手の込んだものだった。


その豪華な着物に負けじと、黒地に、金糸と銀糸で織り込まれた亀甲模様が、モダンさを引きだしている。


そんな、月子の着飾った姿に、岩崎は目もくれず、吉田の用意した椅子に座ると、少し足を広げて楽器を固定している。


「……もう!ごめんなさいね。月子さん。京介さんはね、演奏となると、ああなのよ。他のことは目に入らないの!」


芳子は、折角、お洒落したのにと、文句を言うが、それすらも、岩崎の耳には入っていないようだった。


月子は、ただただ、驚いている。岩崎の集中する姿からは、神がかり的、とでも言うべきなのか、目に見えない糸のようなものが、ピンと張られている、そんな、近寄りがたい雰囲気が漂っていたからだ。


すると、岩崎が、こちらへ、一礼する。


演奏を始めるという合図だと、月子にも、分かったが、一瞬の間、岩崎の目が、月子へ向けられ、少し見開かれたような気がした。


その、わずかな視線に、月子は、何故か耐えられなくて、さっと、うつむいた。


同時に、胸がドキドキと高鳴るが、月子にはなぜなのか分からない。


この胸の鼓動が、皆に聞こえまいかと、月子は、一人焦るばかりだった。


「では、ヨハン・ゼバスティアン・バッハによる作曲、G線上のアリアを」


岩崎が言った。


昔、義父に連れて行ってもらった、演芸場の客寄せが奏でていたバイオリンよりも、遥かに大きなものを、岩崎は、体に持たせかけるようにして、右手で持つ弓を引く。


ギュインと、高音が鳴り響き、岩崎は一息置くと、左手の指を、楽器の弦の上で細やかに動かし始める。


月子は、岩崎の姿に釘付けになった。


岩崎の指は、規律正しく弦を押さえて行く。


各々の指先は、旋律に沿って、細やかな動きを見せる。


同時に、少し体を屈めながら、岩崎の右手は、握る弓を弦へ滑らせて行く。


奏でられる響きは、月子にとって、まさに、西洋、だった。


初めて耳にする音の連なり、重低音から、高音へと、静かに発せられる奥行きのあるものは、どこか、別の国へ誘ってくれた。


月子は、岩崎の弦を滑るように動く指と、それにあわせ、体をくゆらせながら弓を引く姿から目が離せないでいる。


それだけのこと、から、どうして、こんなにまで、きめ細やかで、澄んだ音色が出てくるのだろう。


幼い頃、義父と聞いた、客寄せのバイオリンは、確かに楽しかったが、もっと、軽薄で、ここまで、聞きたいと思えるものではなかった。


そして、岩崎は、目を閉じ、時に、歌うように口を動かし、流れ出る音色を確認している。


……すごい。


それしか、月子には思い浮かばないほど、繰り広げられている演奏は、衝撃的なものだった。


岩崎が、ゆっくりと弓を引いた。


とたんに、部屋は静寂に包まれる。


パチパチと、男爵夫妻が拍手して、何か喋っているが、月子の頭は、ぼっとして、演奏が終わったと、一礼している岩崎を、静かに眺めることしか出来ないでいた。


「あら、月子さん、どうしたの?黙りこんじゃって」


側に立つ芳子が、不思議そうに声をかけて来るが、その視線は、お咲にも向けられている。


「あらあらまあまあ、二人して、ぼーぜん、って、やつね」


ほほほと、上品に笑う芳子に続き、お咲が、口を開いた。


「びーびーびー、びびびーびびびー」


目を皿のように見開き、明らかに興奮ぎみのお咲は、我慢しきれないとばかりに、岩崎が奏でた旋律を口走る。


「あら!嘘っ!京一さん!」


「なんと!お咲!続けなさい!」


男爵夫妻の驚き声に、お咲は、戸惑いつつも、びーびーと、唄いきる。


「京介!お咲は、凄いぞ!お前!弟子にしろっ!」


「そうね!すごいわ!一度聞いただけで、完璧に唄いきるなんて。やっぱり、カエルのお陰なのかしら」


義姉上あねうえカエルとは?」


ああ、それが、と、芳子は、岩崎へ、お咲の遊び相手は、田んぼにいるカエルで、いつも、鳴き真似をしていたのだと、お咲本人から聞いた事を伝えた。


「……いや、カエルという訳ではなく……なんというか、生まれ持ったもの、絶対音感的なものを、お咲は、持っているんじゃないでしょうかねぇ……」


「ならばこそだ!京介!才能あるものをみすみす放置しておくのか!もしや、これは、和製クララ・シューマンの誕生かもしれん!」


それは……と、岩崎は、渋っている。


「月子さん。これが、音楽家というものよ。慣れないでしょうけどね、そうですね、そうですよね、と、側で頷いていればいい。ただ、根気は、かなりいるけれど……。あなたになら、京介さんも、ついでに、お咲ちゃんも、まかせられると思う……」


どうかしら?と、芳子は、月子をじっと見た。


「……あ、あの、私には、難しくて……お話も分かりませんし……」


「だからこそ、あなたなの。京介さんの側で、ぶつぶつ言ってる事を、黙って聞ける人でないと……。あなたなら、適任だと思う」


芳子の言葉に、男爵も、


「月子さん、どうだろう?こんな、面白味のない男だけれど、だからこそ、君が、うってつけだと思うんだよ」


と、目を細めながら、月子へ言った。


「……面白味のない……とは……」


岩崎は、不服そうに呟くが、芳子は、それを聞き逃さなかった。


「じゃあ、面白い話を月子さんとするつもりなのね?京介さん?」


それは、と、口ごもる岩崎と、えっ、と驚く月子の二人を、芳子も、男爵も、嬉しそうに眺める。


「ご歓談中では、ございますが、そろそろお時間でございます」


執事の吉田が現れ、男爵夫妻へ一言助言する。


たちまちに、芳子が、弾けた。


「そうよ!西条家へ行かなくちゃ!」


「おお、そうだ!いくらなんでも、黙ってこのまま、月子さんを預かる訳にはいかんからな。そうだろ!京介!」


兄に、発破をかけられ、岩崎は、はぁ、と、小さく答えた。

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