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第26話

玄関前、車寄せでは、運転手の三田が待機していた。


車の助手席ドアを開け、男爵に席を勧める。


「おお、そうだな、月子さんは、京介と一緒の方がいいだろう。後部座席にお座りなさい」


車に乗り込みながら、男爵は、三田の進言に頷いて、余計な気を回してくれる。


「じゃあ、私は奥へ。その方が月子さんも、乗り降りしやすいでしょ?」


助手席に男爵が収まるのを見て、芳子が言った。


三田が続けて、後部座席のドアを開けると、残りの面々へ、どうぞと、頭を下げる。


芳子、岩崎、が乗り込み、月子の番が来た。


片足を上げなければ、乗り込めない。が、それが、挫いた足に負担がかかり、月子は、痛みから思わず、小さく呻いた。


「少しの辛抱だ」


岩崎が、とっさに、月子の腰に手をやると、そのまま車内へ、月子の体を滑り込ませる。


「あらあらまあまあ、助っ人現る。私が怪我をしても、京介さんは、同じように手を貸してくれるのかしら?」


「兄上がいらっしゃるでしょっ!」


芳子のからかいに、岩崎は、ふてくされた様に怒鳴った。月子は、思わず、座席に埋もれるように小さくなる。


「はいはい、とにかく、出発いたします」


運転席に座った三田が、囃し立てるような素振りを見せつつ、エンジンをかける。


ブルブルと、音をたて、車は、動き始めた。


滑るように、岩崎男爵邸の門を潜ったところで、三田が、ぐっと、ハンドルを握った。


「……旦那様。どういたします?」


助手席に座る男爵は、不思議そうに首をかしげたが、先を見て、ああ、と、呟く。


その様子に、芳子も、身を乗り出して、前方を見た。


「あら、やだ!なんで!」


三田と男爵夫妻が望む先には、吉田が追い返そうと門扉を閉めるにも関わらず粘り、皆で茶番まで打った、あの女学生、一ノ瀬玲子が、苦々しそうに車を見つめ立っていた。


「とにかく、目を合わすな」


助手席の男爵が言う。


「追い払ったはずでしょ?まだ、粘っていたんですかねぇ。あのお嬢さん。それなら、凄い執念だなぁ」


三田が肩をすくめながらも、慎重に運転をした。


「速度を落とします。飛び込んで来られたら、たまりませんからね」


確かに、玲子の顔つきは、尋常ではなかった。通り過ぎるであろう、車を彼方から睨み付けているのだから。


「ああ、三田頼む。あの調子だ、何をしでかすやら。道を変えられない所で待ち伏せとはなぁ……」


「京一さん?と、いうことは、京介さんが、神田の家へ帰る為に、出てくるのを待っていたってことかしら?」


「……だろうな。京介、いい加減にしないか!」


男爵は、苛立ちつつ、岩崎へあたった。


「私は何もしておりませんが!」


岩崎も、身の潔白を証明しようとばかりに言い返す。


「もう!ほんと、困ったこと。京介さんが、誰にでも、甘い顔をするからよ!」


「ですから!わ、私は、何も!」


芳子にも責められ、岩崎は、たまらずとばかりに、言葉を返す。


「ああ!京介さん!声が大きいっ!耳が痛くなりそう!」


「はい、皆様、お取り込み中ですが、行きますよ!」


三田が、ふざけ口調で、皆の注意を引いた。


たちまち、車は、徐行して、ノロノロと走る。


岩崎邸の白壁を背にする玲子の、形相が、ハッキリ分かるほど、車は速度を落としたが、すぐに、三田が、速度を上げ、急発進した。


速度の変化に、車は揺れる。


皆、座席から、前のめりになり、月子は、気がつけば、隣に座る岩崎の膝に、転がるように崩れ混んでいた。


はっと、顔を上げたその瞬間、月子は、窓の外から痛いほどの視線を浴びている事に気がついた。


玲子が、月子を睨み付けている。


「あいすみません。お怒りは、あのお嬢さんへ」


三田が車が揺れ、皆が、転がりそうになったことへの詫びを入れるが、その口調は、どこか、辛辣で、明らかに、玲子を邪魔者扱いしていた。


そして、男爵夫婦も、何も言わない。


車内には、異様な雰囲気が流れた。


「大丈夫か?」


岩崎は、何事もなかったように言うと、自身の膝に寄りかかっている月子を起こそうとして、その華奢な肩へ手をかける。


「も、申し訳ありません!」


あたふたしながら、月子は、体を起こすが、垣間見た玲子の顔が、脳裏に焼き付いたままだった。


何か、重くのしかかるような玲子の視線には、月子にも覚えがある。


佐紀子だ。


佐紀子が、月子へ向けて来ていた物と同じものだった。


「……幸先が悪いわね、まったく」


芳子が、皆の胸の内を代弁するかのように言う。その面持ちは、いたく固かった。


「……まあ、気にするな。我々は、西条家へ向かっているのだから」


続く男爵の言葉に、誰も返事はしない。


待ち伏せていた玲子のお陰で、車内の雰囲気は、異常なほど重苦しいものになっていた。


「京介さん!」


車内の重い空気を、芳子が破る。


「あなた、もしかして、また、昔の様なことを?!それじゃあ月子さんは、どうなるの?!」


「見合いということを忘れてないだろうなっ!京介!」


兄の男爵も助手席から、チクリと意見する。


「どうするも、何も……わ、わかっております」


岩崎の困りきった返答に、芳子は、満足げにニンマリ笑った。


「それなら、良し」


助手席で、男爵も頷いている。


「まあ、なんですね、京介様、早く、あの女学生さんと手を切っておしまいなさいな」


三田が、何故か朗らかに口を挟んで来た。


「い、いや、ちょっと!何を!」


岩崎は焦りきるが、三田は、のほほんと言い続ける。


「旦那様、どうせ西条家へ伺うんですから、結納の日取りと、祝言の日取りもお決めになったらどうですか?何度も、行ったり来たりは、あたしも、面倒ですからねぇ」


なるほど、なるほど、と、男爵が、三田の言い分に頷いた。


「そうよね、その方が、月子さんも、落ち着くだろうし、何かと準備もはかどるだろうし、何よりも……」


芳子も三田の言い分に納得しているが、ふと、言葉を止めた。


「あー、奥様、さいですねぇ、血の雨を見るのは、今日で最後にしておきましょうか」


三田が、妙な事を口走る。


隣の男爵は、また、なるほど、なるほど、と、頷いている。


「い、いや、ちょっと!これは、見合いの報告でしょう?!月子さんをこちらに頂戴するという報告で!なんです、血の雨とわっ!」


「言ったわよ!三田!」


「はい、あたしも、聞きましたよ奥様!」


「……また、はめたのですか、義姉上あねうえ


むすりとする岩崎の隣で、芳子は、なんのことかしらと、とぼけきっている。


「おやおや、そんなこんなで、皆様、日本橋界隈にやって参りましたけど……やはり、人が多いですねぇ」


三田が、言うように、道には人が溢れかえっていた。


はっきり、車道と歩道が分けられてない道を進んでいるからか、三田は、速度を落とし、どこか、口振りも固くなっている。


「……確か……。月子さん。ここからだと、西条家も、そう遠くはないはずだね?」


男爵に問われた月子は、見慣れた景色に、そうですと答える。


「じゃあ、三田。停めてくれ。ここからは、歩いて行こう。どのみち、家の前までは無理だろう?」


「ええ、おそらく、少々道が狭もうございますからねぇ。無理だと思われますが?」


言いながら、三田は、道端に車を寄せて停車した。


「あ、あの……」


路面電車が走る大通りの様な広さはないが、決して狭いとは言えない道幅だと、月子は、言いかける。


西条の屋敷も、大通りから、路地には入るが、そこも、路地裏の様な道幅ではなく、ちゃんと車が通れる道だ。


しかし、男爵夫婦は、今いる道すらも、狭い狭いと言って、結局、三田が車のドアを開けている。


何か、おかしな感じがしたまま、月子は、三田の手を借りて車を降りる。


続けて降りてきた岩崎が、


「すまんな。三田は、口達者なだけで、まだ、運転に慣れてないのだよ。おおめに見てやってくれないか?」


と、芳子が降りるのを手伝う三田に聞こえないよう、月子へ言った。


なんだかんだと、男爵夫婦は、三田に恥をかかせないよう、気遣いを見せていたのだ。


育ちが良い。


月子は、ふと、思う。


優しい、というよりも、何かしらちゃんとした育ちゆえに、男爵家の人々は、隅々に気を配れるのではないだろうか。


「どうした?車に酔ったか?」


考えこんでいる月子へ岩崎が、心配そうに言った。


「い、いえ、そうではなくて……」


「ああ、そうか。大丈夫だ。君は歩かなくて良い。私が背負っていくから」


長歩きに心配しているのだろうと岩崎は勘違いしたようで、さあ、と、言って月子へ背を向けしゃがみこむ。


そんな岩崎の姿に、チラチラ目をやりながら、人々は、通りすぎるて行く。


「月子さん、先に行ってくれないと私達は道を知らないのだけど?」


往来の邪魔になりかけていると、芳子は、言いたいのだろうと、月子は、はっとした。


道案内をするごとで、月子は、仕方なく、岩崎の背に身を預ける。


月子を背負うと、すっくと岩崎は立ち上がり、


「すまんな、色々、戸惑うことばかりだろう?岩崎の家は、少々変わっているからなぁ。そんな所へ来てもらうのは、酷なのだが……。私も……洒落た話の一つも出来ない。それに、今の様な、上等な着物も用意出来ない。それでも君は来てくれるのかね?」


淡々と言う。


「ああ、すまない。突然。しかし、西条家へ出向く前にはっきりさせておかないと……」


さらに、畳み掛けるよう、岩崎は月子へ言って来た。


「あ、あの……」


つまり、それは、月子を側に置くと言うこと……なのだろう……か。


「……わ、私こそ、学もない人間で……それなのに、あのようなご立派な音楽をお聞かせ頂いて……あんな、大きな楽器を、やすやすと扱う岩崎様に、私が釣り合うかどうか分かりませんが……」


月子は、口ごもりながらも、岩崎の背で、精一杯答えた。

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