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第36話

「まあまあ、岩崎、そんな怖い顔をするな。おれは、一ノ瀬女史にせっつかれて、事の真意を確かめに来たのであって、さすれば、天才児と遭遇したのだ!」


中村の言葉に岩崎の眉がつり上がる。


「……それは、どうゆうことだ?中村。何の真意をだ?そして、どうして、一ノ瀬君の名前が出てくる?」


怒りつつも、何かを秘めた岩崎の様子に、二代目は、這いつくばって、中村の傍へ行くと、パーンと頭を叩いた。


「痛てぇじゃないか!二代目!」


「中村のにいさん!飲み過ぎだわっ!」


二代目の行動に、中村はポカンとしつつ、すぐさま言い返す。


「飲み過ぎも何も!二代目が、酒勧めたんだろっ!おれは、一ノ瀬女史に、岩崎に見合い話が舞い込んでいるのかと、問い詰められて、仕方なく、ここに確かめに来ただけたぞ!」


「だから!中村のにいさん!月子ちゃんの前だろうがっ!よその女の名前を出しなさんなっ!」


あっと、気まずそうに、黙る中村へ、あの女学生さんだろ?と、二代目も言い渋る。


「二代目も、中村も、構わん。月子は、もう、一ノ瀬君と会っている」


岩崎は、男二人に事情を説明しつつ、月子を見た。


「……音楽学校が、近い。彼女は、私の生徒だ。だから、私の家にもやって来る」


ただ、それだけの話だと、岩崎は、言い切るが、ちょっと待った

!!と、二代目と中村が口を揃えて慌てきった。


「そ、それだと、岩崎!一ノ瀬女史を家へ上げてるように思われるぞ!」


「まずいでしょっ!京さんよ!月子ちゃん、誤解するでしょ!」


皆の慌てように、男爵邸へ押し掛け、居座るかのような女学生、玲子の姿を月子は、思い出した。


何かしら、岩崎へ懇願していた玲子の粘り具合は、相当なものだと、月子も感じていたが、その時の、岩崎含め、男爵邸の面々の様子から、玲子は、いつも勝手に押し掛けて来て、追い返されているのだろうと、予想はできた。


おそらく、岩崎の言った事は、言葉通りで、家にまで上げているということはないだろう。


二代目と中村の、尋常ではない慌てように、月子も、場を収めようと、勇気を出して言ってみる。


「あ、あの女学生さんは、旦那様に何か、お願いがあって来られているのではないのですか?だから……叶えてあげるのは、駄目なのでしょうか?」


「駄目だ」


岩崎が即答した。


中村も、大きく頷いている。


「そうだよ!月子ちゃん!しっかり、見張ってないと、旦那様、を、取られちまうよ!!俺は、あの女学生、気に食わねぇんだよ。良家のお嬢様なんだろうけど、誰でもかれでも、使用人扱いするからねぇ」


岩崎が留守のとき、たまたま、玲子とかち合ったという二代目が、おもむろに顔をしかめて、玲子の事をこき下ろす。


「いや、まあ、一ノ瀬女史とは、関わらない方が身のためだよ、本当に」


中村も、玲子の扱い方は、難しいと、ブツブツ言った。


総スカンと言って良いほど、皆の玲子へ態度に、月子は、そうなのですかと、小さく呟くしかなかった。


「……音楽学校では、定期的に生徒達による演奏会が開かれる。今は、次の演奏会の練習の最中なのだが、一ノ瀬君は、私と、演奏を組みたがっているのだよ。あくまでも、学生有志によるものに、教鞭を取る私が加わるのは、適していない」


勉学の成果の見せ所、しいては、卒業後の、支援者パトロンを見つける機会でもある発表会なのだから、と、岩崎は、学生達だけで演奏会を行うべきだと言った。


「そう、そこなのだ。まあ、支援者、に、関しては、簡単には見つからない。それは、皆分かっている。しかし、いわば、まだ素人の我々の中に、岩崎が、入ってくるのは違うと、おれも思う。そして、どうして、一ノ瀬女史とだけ、岩崎が共演するのかという不満も出てくるはずだ。残念ながら、一ノ瀬女史は、そこまでの腕を持ち合わせていないしね」


「要するに、惚れてるんでしょ?あの女学生さんは。月子ちゃん、旦那様、を、取られない様に気を付けなよ!っていうかねぇ、京さん、なんで、女に人気なんだろう?近所のおかみさん達も、キャーキャー言ってるんだよねぇ」


「そうなのだ!学校でも、岩崎の授業は、女学生が溢れるのだ!」


なぜなんだ?!こんな、唐変木のどこがいいんだ?と、二代目

と中村は、首をひねっているが、当の岩崎は、


「……二代目、その、旦那様というのは、なんだ?」


と、こちらも首をひねっている。


嘘だろと、二代目が、吐き捨てる様に言うと、月子を見た。


「えっ、あっ、それは、旦那様の事で、吉田さんが、そう呼ぶようにと……」


おどおどと、月子は、口ごもりながら言う。


「へえ、吉田執事、やるねぇ」


中村が、ニヤつくが、岩崎は、


「月子は、女中ではないのだが?」


などと、変わらず首をひねっている。


「月子と、呼べるのに、この鈍感さ!」


二代目が呆れ果て、中村は、思わず、ぶっと、吹き出した。


二代目と中村からの、好奇の目から逃げようと、月子は、必死になった。


「あ、あの、お咲ちゃんが!唄い終わっています!ほ、誉めてあげてくださいっ!」


確かに。


お咲は、どうすべきなのかと、佇んでいる。


月子は、手招きしてお咲を呼んだ。


「……月子様……」


お咲の目には、涙が溜まっていた。勝手に唄って良かったのかと言いたげに……。


「ああ!!いかん!二代目!」


「お、お咲!良かった!良かったよ!」


パチパチと中村と二代目が、拍手して、お咲の機嫌を取ろうとしている。


「うん、お咲ちゃん、凄く上手だったよ!」


月子も、お咲の頭を撫でながら誉めた。


すぐに、人の顔色を伺うお咲の気持ちも、そう生きる癖がついてしまっている事も、月子には、良くわかる。それだけに、まだ幼いお咲の事は他人事にはできない。


我が身を切られるかのようで、月子の心も傷んだ。


「おい!親父おやじさん!」


二代目が、岩崎へ噛みついていく。


「親父……とは?!なんだ?!」


「京さん!あんた、父親みたいなもんだろっ!しっかりしなよっ!」


責められた岩崎は、訳がわからんとばかりに、絶句している。


「ああ、そうか!嫁さんができれば、子供もできる!つまりは、二代目!疑似家族ってことだな?!うん!岩崎!お咲で、子供の扱い方練習しておけ!」


「い、いや!お前達!何を?!お咲は、音楽の才能がある、のだろう?それが、どうして?!」


自分が父親とはいったいと、岩崎は、しどろもどろになりながら、二代目と中村へ言い返す。


「あー、そうだ、そうだなぁ。父親というより師匠だぞ。二代目!」


「あっ、そうか。お咲を仕込むなら、師匠だなぁ」


女中奉公よりも、手に職をつけられるとか、なんとか、二代目が、分かったように言い始める。


その言葉に何かを見い出したのか、岩崎はお咲へ、バイオリンを突きだして、弾いてみろなどと言い出した。


「口で、ベンベン言うより、実際やってみた方が、身に付く訳か……」


そんな、無茶なことを二代目までが言い出した。


「鉄は、熱いうちに打て。とも、言う!」


岩崎は、すっかり、その気になっている。


しかし、どうゆう理由だろうと、お咲にバイオリンを渡して、演奏できる訳などない。


それくらい、月子でもわかる。それなのに、男達は、やいのやいのと言いながら、お咲にバイオリンの持ち方など教え始めた。


「……あ……、あ……」


お咲は、皆の勢いに、完全におびえ、バイオリンを受け取るどころか、うまく答える事すらできないでいる。


月子も、この余りの強引さに面食らった。


「あの!皆さん!やめてください!お咲ちゃんが、怖がっています!そもそも、いきなり演奏なんか、無理ですよっ!!」


泣きそうになっている、お咲を見かねて、月子の口は動いていた。


「だ!違いねぇ!京さん!月子さんとやらの言うことが、正しいぜ!」


月子の叫びを追うように、中年男の勇ましい声がする。


皆、誰が来たのだと、居間の入口を見ると、角刈りの頭に、ねじり鉢巻をして、着物の裾をはしょった男が、両手に、盛り蕎麦を持って、へい、お待ちどう!などと、ニカリと笑いながら立っていた。


「いやね、京さんの嫁さんが到着したって。追加の盛り蕎麦をって、吉田の執事さんが」


嫁さんが気になるわ、先に出前した蕎麦のせいろも下げに来たとか言ってくれる。


「そうだ、二代目、空の、せいろがあるが?なんだ、これは!」


岩崎の怒鳴り声に臆することなく、現れた男は、


「やだねぇ、京さん!亀屋特製、引越蕎麦に決まってんだろ?!」


はいはい、ごめんよと、威勢良く言いながら、男は、居間にずかずか入り込むと、出前であろう、蕎麦を置き、腰にぶら下げていた、五号徳利の瓶を置いた。


「へぇ、吉田執事気が効くねえ」


「まあ、まあ、ここは、中村のにいさん、もう一杯やろう!」


たちまち、二代目と中村は、酒へ飛び付いた。

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