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第37話

「引越蕎麦……?」


「そりゃ、新居、だろ?!祝いだよっ!縁起もんだよっ!わかんねぇのかい?!京さん!?」


出前持ちの男は、岩崎へ呆れ顔を向ける。


「ああ、あと、若奥さんに、洋食の差し入れがあるんだ。そこの、月子さんとかいう女中さん、ちょいと、奥向きへ来てくれねぇかい?」


執事の吉田が、男爵家へ戻る道すがら、蕎麦処亀屋へ、月子達の引越蕎麦を追加したそうで、事情を聞いた亀屋の主人であるこの男、寅吉が、気を効かせて差し入れを用意したらしい。


「出前用の自転車の荷台に乗っけて来たから、取りに来ておくれ」


「はい!」


誰よりも早く、お咲が返事をし、寅吉について行こうと動いた。


「へ?!なんで、子供が?!」


寅吉は、訳がわからんと、すっとんきょうな声をあげた。


「あー、そう、そうだわ、お咲が、女中なんだよねぇー」


「二代目、何言ってんだい!」


「あー、亀屋の寅さん、怒鳴らない。怒鳴らない。色々あって、この子が女中なのよ」


二代目は、手違いがあったのだと、寅吉へ事情を説明した。


「亀屋の主人よ!だから、月子は、女中ではない。私が取りに行く」


差し入れには、礼を言うとかなんとか、岩崎が、仏頂面を崩さずに、寅吉へ言った。


「のろけ、かよ」


五合徳利の小瓶から、直接お猪口へ酒をつぎ、チビチビやってる中村が、へらへら笑う。


「え?!いや、なんだか、ますます、わかんねぇなぁ」


寅吉は、廊下に座り込み、あぁ?と、首をひねった。


「だからよー、京さんは、結局、男爵だろ?そんなら、嫁さんも、華族様ってことになるだろ?蕎麦なんて口にあわねーかもしれないって、うちの、かかあが洋食用意したんだがよぉ……」


そこまで言って、寅吉は、月子を再度見た。


地味な木綿の着物姿に戻っている月子は、確かに、若奥様というよりも、女中と間違われる装いだった。


「……あ、私、取りに伺います」


月子が、慌てて言った。岩崎が動こうとしているが、奥向きの事に、男である岩崎を関わらせてはならない。出前、なのだから、器を移す事もあるかもしれない。なにぶん、洋食の出前は、初めてだったため、月子も、少し、戸惑っていた。


「亀屋!お前が、余計な事を言うから、月子もお咲も、混乱している!」


岩崎が、不服そうに言う。


その横から、


「戸惑ってるのは、岩崎だろ」


「ああ、違いねぇなー、京さんったら、月子ちゃん可愛さ丸出しじゃねぇか」


と、言わずと知れた合いの手が入る。


「へぇ、女中さんじゃなかったと!こりゃまたー!が!京さん、いきなり、二人の子持ちか……」


「だから!」


勘違いしきっている寅吉へ、岩崎が、抗議の声をあげた。


「なっ、結局、こうなる訳よ。中村のにいさん」


二代目が、肩を揺らし、笑いを噛みしめている。


「うーん、岩崎よ、その口髭だろ、原因は。それ、なんとかしたらどうだ?月子ちゃんも、嫌だろ?!」


呂律が、回らなくなりかけの中村が、月子へ問いかける。


「え?!」


特に、そんなことを考えていなかった月子は、岩崎の口髭をまじまじと見てしまう。


助けてもらった時は、口髭が、ではなく、岩崎の態度が、とても立派で、大人びていた為に、家族持ちと思い込んだ。逆に、それが、安心感を、あの時は呼んだのだけれど、中村が言うように、もし、岩崎の口髭が原因で、月子と親子に見られてしまうのなら、やはり、口髭は、邪魔、なのだろうか。


「と、とにかく、なんでもいい!蕎麦が伸びてしまう!洋食とやらを取りに行くぞ!」


岩崎が、寅吉を急かした。


はいはい、と、寅吉も返事しながら、裏口である、お勝手へ向う。


ドタドタと、男二人が歩んで行く姿を見送りつつ、


「月子ちゃん、岩崎のこと、あんなに見つめちゃだめだよー」


と、中村が言い、続けて二代目が、空いたせいろを片づけつつ、


「あっ、髭ね。口髭ときたかー、確かに、あれのせいで、親子に見えるわなぁー」


と、呑気に言った。


「そ、そんなことは、そんなことは、ないと思います!」


目一杯否定する月子の様に、二代目と中村は、顔を見合せ、にやけきった。


──重箱に、オムレツ、カツレツ、フライが詰め込まれていた。


岩崎が、亀屋の主人寅吉から、手渡された重箱の蓋を開けたとたん現れた下町洋食の定番に、二代目も中村も歓声をあげた。


そんな中、岩崎が手際よく、箸と取り皿を銘々に配っている。


「あっ!旦那様、わ、私が!」


月子が慌てた。隣にいるお咲も、なんとなく察したようで、女中の仕事をしなくてはと、そわそわしている。


「いや、構わん。どこに何があるかまだ、分からないだろうから。と、いうよりも……、二代目、台所にこの皿と箸も含め、道具類が増えているのだが、どうゆうことだ?」


岩崎は、月子へ足を挫いているのだから、座っているように言いつつ、見覚えのない物があると、二代目に尋ねた。


「あー、それね、それ、岩崎家執事と、大家の俺の仕事だよ。本当に何にもないからさぁー、手分けして、とりあえず必要な物を揃えたってことですけど?」


旨そうだと言いながら、二代目は、オムレツを皿によそっている。


「おお、蕎麦もいいが、やっぱり、洋食だよなぁ」


中村も嬉しげに箸を取る。


「さあ、遠慮しないで、食べなさい。思えば、あちこち行って食事もまともにとっていなかった……」


そこへ、岩崎の言葉を聞いていたのか、柱時計が、ボーンボーンと、二回鳴る。


「え?!もう、昼をとっくに過ぎてる!月子ちゃん、早く食べな!中村のにいさん、ちいと控えておくれ!月子ちゃんは、何も食べてねぇんだから」


二代目が、月子の前へ重箱を移動させた。


「よし!お咲、食べたら、音階を教えるぞ!」


こまめに動いていた岩崎も腰を下ろし、箸を取る。


「いや、岩崎、そんな無茶な」


「中村!いつまでも、ビービー、ちゃんちゃんでは、いくまい!」


まだ、早いだろうと、抗う中村に、岩崎は、一歩も引かない。


月子は、二人の話が理解できず、取り皿をもったまま、呆然としていた。


「うーん、そんな小難しいことよりも、お咲の場合……箸の使い方から、いや、物の食べ方から教えた方がいいんじゃないのかねぇ」


二代目が、少し寂しそうに言った。


言われて見てみると……、お咲は、手掴みで蕎麦を口に運んでいる。


「叱るんじゃないよ、京さん!お咲は、それだけ、どん底の生活を送ってたってことだから……、京さん、あんたが、しっかり養ってやらなきゃいけないんだ」


「岩崎、見ただろ。今は、音楽じゃない。お咲に、しっかり、モノを食わせてやるのが先だ。二代目、やっぱり……米の買い占めか?」


中村も、何か悟ったような口ぶりで、お咲を庇う。


岩崎は、お咲の食べ方に、多少ぎょっとしつつも、二人に言われて、何か、思い当たるところがあるのか、静かに呟いていた。


「……つまり、米騒動というやつか?というよりも、結局は、シベリア派兵に行き当たるのだが……。米の買い占めが、お咲をここによこしたと、言うことになるわけか……」


男達は、うんうんと、頷き合っているが、月子は、完全に取り残されていた。


お咲の事は、躾やら、教育を受けていない、いや、受けられないほどの、家で育ったということなのだろうが、そこで、シベリアが出てくる事が分からない。


米の買い占め、と、いうのは、なんとなく理解できた。


佐紀子が、それを理由に、月子にも権利があるはずの、義父の遺産を渡し渋ったからだ。そして、実際、米を買いに行っても、値段が、吊り上げっているのは、身に染みていた。


「ああ、君には少し難しかったか……」


岩崎が、険しい顔をして、月子へ言う。


「ちょっ!岩崎!」


「京さん!すげぇ、感じ悪いんだけどぉ?!」


中村と、二代目が、声をあらげた。


「しかし、世の中の動きは、女性には難しい話だろ?」


「うわっ!そこまで言うか!」


欧州ヨーロッパにまで、行きながら、この男尊女卑ぶりは、何事かと、中村が、岩崎を責める。


「月子ちゃん、この落とし前は、大家の責任だ。ちゃんと、中村のにいさんと、ケリをつけるから!安心して、食べちまいな!」


よっしゃと、二代目も、着流しの袖を捲りあげ、岩崎へ詰め寄った。


男二人は、岩崎へ避難の視線を浴びせて、その岩崎は、ひょっとして失言だったのかと、腰が引けている。


なんとなく、緊迫した雰囲気を見た月子は、食べるどころか、空の皿を持ったまま、何が起こるのかと、ハラハラするばかりだった。

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