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第38話

「いくら、男が偉いって思っていてもだなぁ。若い嫁さんの前では、どうかと思うぞ!岩崎!」


「いや、なぜかねぇ、俺も、京さんの物言いには、カチンと来たんだが?!」


中村と二代目が、岩崎を責め立てる。


「い、いや、それはだな、さすがに、シベリア派兵については、難しい話であって……米とシベリアがどう関係するかなど、わからんだろ?ふ、普通……」


どう対処すべきかと、岩崎が、迫りくる形相にオロオロしていると、


「あら、シベリア持って来てちょうどよかったわね」


紙包みを持った、男爵夫妻が立っている。


「京介、声をかけても、誰も出て来ないから上がらせてもらったよ」


「そうそう。バイオリンの音が響いて、なんやかやと、騒がしくて。まあ、他人でもないし、上がりましたよ?はい、これ、シベリア。月子さん、召し上がって」


紙包みを差し出しながら、男爵夫婦は腰を下ろした。


「しかし、なんだなあ。えらく、散らかって……」


男爵が、眉をひそめた。


言われて月子は、辺りを見回したが、畳には蕎麦が散乱している。


お咲が、手掴みで食べているから、も、いくらかあるが、岩崎へ責めぎ寄った男二人が、食べかけていた、盛り蕎麦をひっくり返した事が主な原因のようだった。


「あら、ほんと、いい年して、じゃれあったりしてるからよ!」


芳子も、散らかり具合に気が付いて、着物が汚れると、自分が座っている場所に、目をやった。


「も、申し訳ありません!男爵様!奥様!」


さっと、頭を下げて片付けようとする月子の隣で、


「奥様は、月子様だよ?」


と、お咲が、口一杯に、蕎麦を頬張りながら、喋った。


「あらあら、お咲ちゃん?お口から、こぼれてる……」


「うん、お咲、豪快に食べているなぁ」


男爵夫妻は、特に嫌な顔をする訳けでもなく、お咲に笑いかけた。


「……月子さん、お咲の事を叱らないでくれないかい?月子さんが、病院へ行っている間に、お咲から話を聞いたんだがね。里は、食うに食われん状態なんだ……」


農家の小作だったお咲の家は、兄も姉も、家のために奉公へ出た。残るのは、酒に溺れた父親と、乳飲み子。お咲が一番大きな子供という具合で、最後の頼みの綱と、奉公へ出されたらしい。


結局、父親が働かないのもあるが、そうさせてしまったのは、まさに、日本が、シベリアへ出兵したからなのだ。


派兵へ目をつけた、米の仲買人達が、底値で農村から米を買い取り、軍へ高値で売りさばこうと買い占めした事が、色々な歪みを生んでしまった。


働いても働いても、実入りは、無いに等しく、自分達の食べる米すら取り上げられてしまう状態では、口べらしの為に、お咲は、女中になれると、親に適当な事を言われて、手放されるしかない。


「だから、お咲は……躾らしい躾も、うけられなかった。そこまで、どん底の暮らしぶりだったに違いない」


男爵は、米と、派兵の関係を月子にも分かるよう、説明してくれた。


「そうなのよ、シベリアのせいで、お咲は、まともな暮らしができなかった。そして、軍だけじゃなく、私達のお米まで、高値になった。お米が、手に入りにくくなったから、もう、シベリアを食べたらいいんじゃない?だって、シベリアが、原因でしょ?」


芳子が言いながら、紙包みを開け始める。


「うん、まあ、芳子の言い分は、なんだかわからないけどね、甘いものがあった方がいいと思ってねぇ」


男爵も、嬉しそうに、包みが開けられるのを待っている。


「な、なんと!シベリア!」


中村が、叫んだ。


「いや、まさかの、シベリアづくしときましたか?!」


二代目も、珍しそうに、包みに目をやっている。


「月子さん!これが、シベリア!横浜で、今、大人気のお菓子なのよ!」


芳子が、包みを開いたとたんに、皆、一斉に、うわっーと、歓声を上げた。


「やっぱり、シベリアのお菓子だわね、見た目もハイカラだわ」


「いや、義姉上、シベリアは、シベリアの菓子ではないですよ」


中村と二代目から、解放された岩崎は、やれやれと息をつきつつ、呟く。


「えー?!嘘!!シベリアで、シベリアは食べないの?!」


「義姉上だって、横浜の菓子だと仰ったでしょう?」


えー!と、芳子は、おもむろに驚愕した。


「まったく、京さんも、余計な事を……、まあ、なんですよ、シベリアは、シベリアってことで、宜しいんじゃないですか?男爵夫人?」


「そうよね、そうよ。シベリアで、食べようと日本で食べようと、シベリアは、シベリアだわ!」


食べましょう食べましょうと、芳子は、ご機嫌になり、二代目は、ポカンとしている、岩崎を小突いて、これ以上喋るなと合図した。


さあ、と、芳子から差し出された菓子は、月子にとって初めて見るものだった。


三角形に切られたカステラに羊羮が挟まれている代物は、高級菓子にしか見えず、月子は本当に食べて良いのかと躊躇した。


一方、二代目も中村も、嬉しそうに、男爵夫婦の差し入れ、シベリアに飛び付いている。


「いや、このね、羊羮の甘さがなんとも言えないわけでして」


二代目は、甘いものに目がないのか、嬉しそうに頬張りつつ、喉が乾いたなどと、調子に乗っている。


「あ!申し訳ありません!お茶の準備もせずに!」


月子は、慌てて立ち上がるが、瞬間、挫いた足首が痛み、顔を歪めた。


「まだ、無理をしない方がいい。座っていなさい」


岩崎が、月子へ言うと、立ち上がる。


どうやら、茶を入れるようなのだが、月子にとっては、それが、落ち着かない。


「あ、あの!お台所の事を覚えたいので!」


「いや、まあ、そうだが……痛むのだろ?」


岩崎は、月子の言い分を通そうとはしなかった。


「はい!お咲がします!お咲は女中だから、ひつじさんが、手伝いなさいと言ったから!」


今度は、お咲が立ち上がった。


「……羊?お咲ちゃん、カエルだけじゃなくて、羊とも友達だったの?」


お家では、羊も飼っていたのかしら?と、芳子が、不思議そうにしている。


「……お咲は、よろしい。面倒なことになる。……じゃあ、月子、君だけ、来なさい」


お咲では、茶を入れるだけの事でも無理だろうと、岩崎の顔には書かれてある。


そして、月子を邪険に扱ったと芳子に噛みつかれる事も、予想しているようだった。


「ゆっくりでいい。ついて来なさい」


言う、岩崎に、月子は頷き、お咲は、少し不満そうに頬を膨らませた。


「おやおや、女中さんはご機嫌斜めだな。中村君、バイオリンを弾いてくれないかね?お咲には、音楽が一番効果があるようだからね」


シベリアを頬張っていた中村は、慌てて、居ずまいを正すと、何故か、男爵へ頭を下げた。


「岩崎男爵!ぜひ、私の演奏を聞いてください!」


突然の変わり身というべきものに、皆、唖然としたが、男爵と岩崎は、心当たりがあるのか、冷めた目付きで、頭を下げている中村を見た。


「中村君。……紹介状だね?」


「中村、どこへ勤めたいと思っているのだ?」


続けて岩崎が尋ねた。


「東郷客船に……。日米航路の楽団で演奏をしたいのです!」


自分は西洋の音楽を演奏している。だからこそ、一度は、その西洋で、本物の音楽に触れてみたいのだと、中村は、必死に男爵へ語りかけた。


「私の家では、岩崎、いえ、岩崎先生のように、欧州ヨーロッパへ留学など無理なのです。下宿代と学費の援助も苦しいはずです。でも、夢を捨てたくはない。それに、アメリカでは、ジャズという新しい音楽が生まれています!西洋から、何か、学び取りたいのです!」


中村は、そこまで言うと、畳に擦り付けるよう、男爵へ頭を下げた。


「……なるほど。客船の楽団に入れば、アメリカと日本を行き来でき、アメリカの文化にも触れられるという訳か」


その頃、日本の海運業界では、数社が、アメリカへ旅客航路を運航しており、乗客向けに各々楽団を乗船させていた。


運航中は、夜な夜な音楽を聞かせ、ダンスパーティーでの伴奏を奏でと、活躍していたのだ。


楽団員には、中村のように、西洋に憧れる音楽学校の卒業生が数多くいた。


「うん、まずは、中村君。バイオリンを聞かせてくれ。君は、私と良く顔を合わせるほど、京介の家に遊びに来ている。つまり、それなりの腕があるのだろう?」


はい、と、中村は、大きく返事をして、立ち上がる。


「……さあ、台所へ行くぞ」


「あの、中村様のバイオリンを、旦那様は、聞かなくてよろしいのですか?」


話ぶりでは、中村の将来が、かかっているような気がするのだが、岩崎は、聞く耳もたずといった感じで、台所へ向かおうとしていた。


果たして、それで、いいのか?


月子の思いを読み取ったのか、岩崎は言う。


「中村は、私の生徒でもある。あいつの弾き癖は、誰よりも分かっているし、台所にも、音は流れて来る。ほら、二代目が茶を欲しがっているようだ……」


「え?」


月子が、その二代目を見てみると、うっと、唸りながら、胸元をトントン叩いていた。


「一度に頬張り過ぎるからだ。まあ、シベリアは、珍しいからなぁ。がっついて食べてしまうのも、分からなくはないが。取りあえず、酒で流し込んでおけ」


それだけ言うと、岩崎は、知らぬ存ぜぬと、居間を出て台所へ向かった。

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