「いくら、男が偉いって思っていてもだなぁ。若い嫁さんの前では、どうかと思うぞ!岩崎!」
「いや、なぜかねぇ、俺も、京さんの物言いには、カチンと来たんだが?!」
中村と二代目が、岩崎を責め立てる。
「い、いや、それはだな、さすがに、シベリア派兵については、難しい話であって……米とシベリアがどう関係するかなど、わからんだろ?ふ、普通……」
どう対処すべきかと、岩崎が、迫りくる形相にオロオロしていると、
「あら、シベリア持って来てちょうどよかったわね」
紙包みを持った、男爵夫妻が立っている。
「京介、声をかけても、誰も出て来ないから上がらせてもらったよ」
「そうそう。バイオリンの音が響いて、なんやかやと、騒がしくて。まあ、他人でもないし、上がりましたよ?はい、これ、シベリア。月子さん、召し上がって」
紙包みを差し出しながら、男爵夫婦は腰を下ろした。
「しかし、なんだなあ。えらく、散らかって……」
男爵が、眉をひそめた。
言われて月子は、辺りを見回したが、畳には蕎麦が散乱している。
お咲が、手掴みで食べているから、も、いくらかあるが、岩崎へ責めぎ寄った男二人が、食べかけていた、盛り蕎麦をひっくり返した事が主な原因のようだった。
「あら、ほんと、いい年して、じゃれあったりしてるからよ!」
芳子も、散らかり具合に気が付いて、着物が汚れると、自分が座っている場所に、目をやった。
「も、申し訳ありません!男爵様!奥様!」
さっと、頭を下げて片付けようとする月子の隣で、
「奥様は、月子様だよ?」
と、お咲が、口一杯に、蕎麦を頬張りながら、喋った。
「あらあら、お咲ちゃん?お口から、こぼれてる……」
「うん、お咲、豪快に食べているなぁ」
男爵夫妻は、特に嫌な顔をする訳けでもなく、お咲に笑いかけた。
「……月子さん、お咲の事を叱らないでくれないかい?月子さんが、病院へ行っている間に、お咲から話を聞いたんだがね。里は、食うに食われん状態なんだ……」
農家の小作だったお咲の家は、兄も姉も、家のために奉公へ出た。残るのは、酒に溺れた父親と、乳飲み子。お咲が一番大きな子供という具合で、最後の頼みの綱と、奉公へ出されたらしい。
結局、父親が働かないのもあるが、そうさせてしまったのは、まさに、日本が、シベリアへ出兵したからなのだ。
派兵へ目をつけた、米の仲買人達が、底値で農村から米を買い取り、軍へ高値で売りさばこうと買い占めした事が、色々な歪みを生んでしまった。
働いても働いても、実入りは、無いに等しく、自分達の食べる米すら取り上げられてしまう状態では、口べらしの為に、お咲は、女中になれると、親に適当な事を言われて、手放されるしかない。
「だから、お咲は……躾らしい躾も、うけられなかった。そこまで、どん底の暮らしぶりだったに違いない」
男爵は、米と、派兵の関係を月子にも分かるよう、説明してくれた。
「そうなのよ、シベリアのせいで、お咲は、まともな暮らしができなかった。そして、軍だけじゃなく、私達のお米まで、高値になった。お米が、手に入りにくくなったから、もう、シベリアを食べたらいいんじゃない?だって、シベリアが、原因でしょ?」
芳子が言いながら、紙包みを開け始める。
「うん、まあ、芳子の言い分は、なんだかわからないけどね、甘いものがあった方がいいと思ってねぇ」
男爵も、嬉しそうに、包みが開けられるのを待っている。
「な、なんと!シベリア!」
中村が、叫んだ。
「いや、まさかの、シベリアづくしときましたか?!」
二代目も、珍しそうに、包みに目をやっている。
「月子さん!これが、シベリア!横浜で、今、大人気のお菓子なのよ!」
芳子が、包みを開いたとたんに、皆、一斉に、うわっーと、歓声を上げた。
「やっぱり、シベリアのお菓子だわね、見た目もハイカラだわ」
「いや、義姉上、シベリアは、シベリアの菓子ではないですよ」
中村と二代目から、解放された岩崎は、やれやれと息をつきつつ、呟く。
「えー?!嘘!!シベリアで、シベリアは食べないの?!」
「義姉上だって、横浜の菓子だと仰ったでしょう?」
えー!と、芳子は、おもむろに驚愕した。
「まったく、京さんも、余計な事を……、まあ、なんですよ、シベリアは、シベリアってことで、宜しいんじゃないですか?男爵夫人?」
「そうよね、そうよ。シベリアで、食べようと日本で食べようと、シベリアは、シベリアだわ!」
食べましょう食べましょうと、芳子は、ご機嫌になり、二代目は、ポカンとしている、岩崎を小突いて、これ以上喋るなと合図した。
さあ、と、芳子から差し出された菓子は、月子にとって初めて見るものだった。
三角形に切られたカステラに羊羮が挟まれている代物は、高級菓子にしか見えず、月子は本当に食べて良いのかと躊躇した。
一方、二代目も中村も、嬉しそうに、男爵夫婦の差し入れ、シベリアに飛び付いている。
「いや、このね、羊羮の甘さがなんとも言えないわけでして」
二代目は、甘いものに目がないのか、嬉しそうに頬張りつつ、喉が乾いたなどと、調子に乗っている。
「あ!申し訳ありません!お茶の準備もせずに!」
月子は、慌てて立ち上がるが、瞬間、挫いた足首が痛み、顔を歪めた。
「まだ、無理をしない方がいい。座っていなさい」
岩崎が、月子へ言うと、立ち上がる。
どうやら、茶を入れるようなのだが、月子にとっては、それが、落ち着かない。
「あ、あの!お台所の事を覚えたいので!」
「いや、まあ、そうだが……痛むのだろ?」
岩崎は、月子の言い分を通そうとはしなかった。
「はい!お咲がします!お咲は女中だから、ひつじさんが、手伝いなさいと言ったから!」
今度は、お咲が立ち上がった。
「……羊?お咲ちゃん、カエルだけじゃなくて、羊とも友達だったの?」
お家では、羊も飼っていたのかしら?と、芳子が、不思議そうにしている。
「……お咲は、よろしい。面倒なことになる。……じゃあ、月子、君だけ、来なさい」
お咲では、茶を入れるだけの事でも無理だろうと、岩崎の顔には書かれてある。
そして、月子を邪険に扱ったと芳子に噛みつかれる事も、予想しているようだった。
「ゆっくりでいい。ついて来なさい」
言う、岩崎に、月子は頷き、お咲は、少し不満そうに頬を膨らませた。
「おやおや、女中さんはご機嫌斜めだな。中村君、バイオリンを弾いてくれないかね?お咲には、音楽が一番効果があるようだからね」
シベリアを頬張っていた中村は、慌てて、居ずまいを正すと、何故か、男爵へ頭を下げた。
「岩崎男爵!ぜひ、私の演奏を聞いてください!」
突然の変わり身というべきものに、皆、唖然としたが、男爵と岩崎は、心当たりがあるのか、冷めた目付きで、頭を下げている中村を見た。
「中村君。……紹介状だね?」
「中村、どこへ勤めたいと思っているのだ?」
続けて岩崎が尋ねた。
「東郷客船に……。日米航路の楽団で演奏をしたいのです!」
自分は西洋の音楽を演奏している。だからこそ、一度は、その西洋で、本物の音楽に触れてみたいのだと、中村は、必死に男爵へ語りかけた。
「私の家では、岩崎、いえ、岩崎先生のように、
中村は、そこまで言うと、畳に擦り付けるよう、男爵へ頭を下げた。
「……なるほど。客船の楽団に入れば、アメリカと日本を行き来でき、アメリカの文化にも触れられるという訳か」
その頃、日本の海運業界では、数社が、アメリカへ旅客航路を運航しており、乗客向けに各々楽団を乗船させていた。
運航中は、夜な夜な音楽を聞かせ、ダンスパーティーでの伴奏を奏でと、活躍していたのだ。
楽団員には、中村のように、西洋に憧れる音楽学校の卒業生が数多くいた。
「うん、まずは、中村君。バイオリンを聞かせてくれ。君は、私と良く顔を合わせるほど、京介の家に遊びに来ている。つまり、それなりの腕があるのだろう?」
はい、と、中村は、大きく返事をして、立ち上がる。
「……さあ、台所へ行くぞ」
「あの、中村様のバイオリンを、旦那様は、聞かなくてよろしいのですか?」
話ぶりでは、中村の将来が、かかっているような気がするのだが、岩崎は、聞く耳もたずといった感じで、台所へ向かおうとしていた。
果たして、それで、いいのか?
月子の思いを読み取ったのか、岩崎は言う。
「中村は、私の生徒でもある。あいつの弾き癖は、誰よりも分かっているし、台所にも、音は流れて来る。ほら、二代目が茶を欲しがっているようだ……」
「え?」
月子が、その二代目を見てみると、うっと、唸りながら、胸元をトントン叩いていた。
「一度に頬張り過ぎるからだ。まあ、シベリアは、珍しいからなぁ。がっついて食べてしまうのも、分からなくはないが。取りあえず、酒で流し込んでおけ」
それだけ言うと、岩崎は、知らぬ存ぜぬと、居間を出て台所へ向かった。