目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第十九話『真犯人』

「ニガバナぁ、お昼はどうすんの?」


 そう言いながら社長が軽バンを降りてきた。時間はもう昼の十二時半を過ぎていた。


「あ、どうしましょうかね。わたしもさっきやっと午前の配達が終わって帰ってきて――」


「まだ何も食べてないんだろ? 午後の便は遅いから何か食べに行くか? 奢ってやるよ」


「あ、いや、それは悪いです」


「遠慮するなって。ニガバナ、何だか最近痩せてきてるぞ?」


「そうですか?」


「私の車に乗りな。肉行こうぜ肉」


 そしてわたしは社長のセダンの助手席に乗り、ランチメニューのある焼肉屋へと向かった。


「ニガバナさぁ」


「はい」


「悩みがあるだろ。最近」


「悩み――ですか」


「見ていれば分かるんだよ。特にお前は表情に出やすいから」


「そんなにわたし、感情が顔に出てますか」


「いいや。顔というか口元ね。口がへの字になりすぎなんだよ、最近さぁ」


 ハンドルを握っている社長の横顔をちらりと見た。

 綺麗な、整った顔だった。

 社長は早音さんとは系統が違う美人であり、頼もしさが漂っている。


「――話すと、長くなります」


「ん。じゃ肉食べながらゆっくり聞こうか」


 やがて、わたしたちは焼肉チェーン店に到着し、テーブル席に向かい合って座った。


「ほらほらニガバナ、ここランチメニューがドカ盛りに変わってるぞ。好きなもの注文しろ。食べ切れなかったら私が食べてやるから」


 メニュー表を見ながら子供のように社長がはしゃぐ。わたしもメニューを見て、ランチメニューミニで、と言った。


「ミニランチで足りるのか? じゃ私は大盛りで」


 注文を終えると、社長はコップの水に少し口をつけた。

 よく食べるのに、スタイルの良さがまったく崩れない人なのだ。


「昼からさぁ、『cafe 魔術師』に配達する予定入ってるじゃん? ああいう単発の仕事をさ、ニガバナが取ってきてくれて私も嬉しいんだよ」


 ――そうだ。

 わたしの中でトリガーが引かれた。


「その件から相談しようと思うんですが――」


「ん?」


 わたしは社長に話した。

 魔の葬送の事。早音さんの事。わたし自身がアイデンティティの迷い子として彷徨している事――。


 それらを、洗いざらい吐き出した。


 途中で店員が肉と白米を運んできたが、構わずわたしは話を続けた。

 社長は時々頷きながら、わたしの絞り出すような独白を黙って聞いていた。

 そして、社長は黙って肉を数枚、金網の上に乗せた。


「まあ、食べな」


「はい」


 お互いに黙って肉を焼く。香ばしい音と匂いが立ち込める。


「ニガバナ」


「はい――」


「で、お前はどうしたいの?」


 当然の質問とでもいうかのように、社長はそう訊ねてきた。


「何をしたいのかが――分かりません。事件の解決、積尸気さんに認められたい事、早音さんの快復、魔と聖の間のグラデーション――全部が、いまぼんやりとしています」


「また考え事をしながらスクーターを運転するなよ。危ないから。とりあえず、私はニガバナの健康と安定が第一だ」


 そう言って肉を口に運ぶ。わたしも程よく焼けた肉をゆっくり咀嚼した。


「大体さぁ」


「はい」


「深く考え過ぎじゃないか?」


「そうでしょうか」


「魔だの聖だの、認められたいだの、それはあまり関係ないだろ。空き地で殺人があって、その犯人はまだ捕まってないってだけだろ」


「でも、大切な友人の早音さんも犯人の犠牲に――」


「そこからややこしくなってくるんだよな。ニガバナの友達――あの寅浜建設の娘な、その子が犯人に狙われた理由、そこからお前はぐるぐると考え過ぎの迷路か泥沼に嵌まってるんだ」


「――かも、しれません」


「単純な殺人を勝手に怪物化させてさ、正体不明のキメラにしてるのは、自分自身じゃないか? 『魔の葬送』でのやり取りや、お前の探偵ごっこって結局さぁ、事件を評論してるんだよ。単純なものにわざわざ付加価値を与えてややこしくしてんの」


 わたしは咄嗟に言葉が出なかった。


 殺人現場の空き地には虚無を感じたが、しかしあれは一般的にはただの事件現場であり、わざわざ詩的に虚無などという言葉に浸る事も無いだろう。この事件に関するあらゆる事象にそう言える――わたしは、やはり勝手に事件を怪物化していたのだろうか。


「はら肉食べろ肉」


 あっと小さい声を上げた。金網の上の肉が焦げかけている。


「その肉と同じだよ。適度に焼けば美味しく食べられるのに、考え込んでいるせいで焦げて変色してしまう」そう言って社長は白米を口にし、飲み込んだ。「案外、すぐそこに犯人が居て事件の終わりも近いんじゃない?」


「事件の終わり――」


「だってさ、警察だってそんなに無能じゃないし、あの早音って子は犯人を目撃したんだろ? 有力情報だよね」


 それに、と社長は続ける。


「ニガバナが危なくなったらすぐに守ってやるよ」


「あ、ありがとうございます――」


「あの設楽――神代さんだっけ? それとお前の好きな積尸気さん。話を聞くに私はその二人はあまり好きじゃない。ニガバナを迷わせてるだけだ」


「積尸気さんはヒントを与えてくれるし、神代さんは、その――」


 わたしが口ごもったのを察して、社長が言葉を被せてきた。


「お前、情報収集のために神代さんの所に行ったら、逆に全身マッサージされて感じてたんだろ?」


 自分の顔が真っ赤になるのが分かった。


「い、いや、それは、逆らえるような雰囲気じゃなくて、その――」


「そこでニガバナはもう聖やら魔やらに負けてるんだよ。最初から近寄るべきではなかった領域だね」


 そう、だったのだろうか――


 そして、わたしたちは焼肉屋の勘定を済ませると営業本社に戻った。昼過ぎからの配達の準備をする。


「ニガバナ、『cafe 魔術師』に配達に行ったらちょっとゆっくりしてこいよ。私が他の荷物行っとくから」


 社長の言葉に甘える事にした。仕事疲れも最近は出ているようだ。


「はい、少し休憩してから戻ってきます」


 そんなに量は食べなかったが、先程の焼肉がお腹にやや重い。しかし急激にスタミナが増した気もする。


 社長に御馳走様でしたと告げ、わたしはスクーターのルーフの下に跨がった。天気も晴れているし、わたしの胸中も少し晴れてきていた。


 わたしは現在、思考の迷宮に堂々巡りを繰り返している。それを突破するにはやはり体力が必要だ。


 今は、少し休息すべきなのだろう。


『cafe 魔術師』のモカを思い浮かべる。あの甘さと熱さを。

 そうした小さな楽しみに向かう事も、休息となるはずだ


 わたしはスクーターを発進させた。


 エンジンが小気味良く唸り、スムーズに前進する。そよ風の中、わたしを乗せたスクーターは速度を増す。


 世間一般では平日の昼休み明けの国道。行き交う車はまばらだ。目的地までは渋滞も無く、赤信号も少ない。天候と満腹、そしてスクーターを走らせる爽快感にわたしの気分は晴れ込んでいる。何か良い事が、良い報せがあるはずだ。そんな予感に気分が軽くなってきていた。


 やがてわたしは『cafe 魔術師』の駐車場に到着した。スクーターを端に寄せて停め、キーを抜く。店のドアを軽やかに開ける。


 ――その時。


 何故か、思考の迷宮から抜け出せた気がした。

 遠回りしていた道程の終着点に訪れた気がした。


 その感覚は何事でも無いかのようにやってきて、当然のようにわたしの頭の中を掠め、姿を変えて魔と聖の天秤を掲げ、背後に降り立った。


 チリン、チリン。

 ドアのベルが鳴る。


「いらっしゃいませ」


 垂れ目のオーナー、嘉山さんがニコニコと笑いながらわたしに会釈した。


「こんにちは」


 わたしは今の感覚にやや戸惑いながら嘉山さんに挨拶をする。


 カウンター席に座った。


「今日はよく晴れてるでしょう」


 微笑みを絶やさない嘉山さんにわたしは「はい。スクーターに乗ってると気持ちが良かったです」と返事をし、モカを注文しようとした。


「モカになさいますか」


 嘉山さんは微笑んだままそう言う。


 ――その時。

 何かが、合致した。


 上手く言語化ができない重要なピースが嵌まった。


「モカ、お願いします」


 何かの答えを得た。

 しかし、それを持て余している。


 どうすれば。

 どうすれば。


「苦花さん、深刻な表情になってますね」

 モカを淹れながら嘉山さんがゆっくりと、ゆっくりと喋った、どこか、遠くの世界の事を語るように。それは、嘉山さんの素の一端。今まで決してお客様に見せなかった心の中の望郷――。

 それをわたしに見せた。


 目の前にモカが注がれたカップが置かれた。

 白いカップに満たされた琥珀色のモカ。


「嘉山さん」


「はい」


「息子さんは、元気になさってますか?」


「また部屋に籠りがちになってますが、元気と言えば元気――なんですかね」


「自分の子供さんですから――やはり元気で居て欲しいですよね」


「そうですね。ハンディキャップを抱えてるとはいえ、大切な息子ですから」


 モカに口をつける。甘かった。そして、哀しい味がした。


 魔のことわりも聖の力もそこには無かった。在ったのはただのモカ。それだけの事実。


 ここに到達するまで、わたしはどれだけの遠回りをしてきたのだろう。


「息子さんも、嘉山さんも――今まで辛い思いをなされてきたのだろうとは思います」


 ――でも。


「でも――それでも――」


 わたしの目に涙が滲んでくるのが分かった。

 嘉山さんは黙っている。カウンターの向こうで、柔和な表情を崩さぬままに。


 とても硬質な数秒間の沈黙の後のち、嘉山さんは言った。


「――そうですね。恐らく、苦花さんの思っている通りなのでしょう」


 優しいトーンの言葉で紡がれる肯定の意思。

 それは多分、この事件の最後の魔だ。


「ただ、わたしは息子が大切だった。そして」


 そして。


「それを踏みにじった人間が許せなかった」


 目を伏せた嘉山さんは法廷に招かれた聖人のようだった。

 グラデーションの中央に居た人間が魔と聖の間で揺れ、振り切れた。一歩間違えばわたしもそうなっていたのかもしれない。嘉山さんは、ただ――息子さんの仇を――。


「嘉山さん」


「――はい」


「出頭して下さい」


 この店のオーナー――そして空き地の殺人事件の真犯人の目を見ながら、わたしは言う。慎重に。そして力強く。グラデーションを提唱する人間として。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?