嘉山さんの逮捕から一ヶ月ほど経った。
相変わらずわたしはフルーツロール宅配便有限会社で仕事を続け、社長と雑談し、客先で愛想を振りまいている。
相変わらずわたしはこの町の閉塞感から、時々息が詰まりそうになり空を見上げている。
相変わらずわたしはスクーターで国道沿いを走っている。
相変わらず──。
だが、不変のように思える日常にも変化した部分はあった。
わたしはあの日──嘉山さんと最後に話をした日以来、『魔の葬送』に行ってはおらず、ポロトクの配達は社長がやってくれるようになった。わたしが申し出た訳ではなく、社長が「この仕事は今度から私が持つから」と一方的に決めた事だ。
社長は、もうわたしを魔だの聖だのといった深淵じみたものに関わらせたくはないのだろう。
『魔の葬送』にはしばらく行ってはいないが、それでわたしの中に寂しさにも似た感情が浮かんでくる事は不思議と無かった。日常から迷い込んだ異界、そして事件。思考の迷宮に囚われ、町の密室に囲われた雁字搦めの出来事。わたしは自縄自縛に陥り、勝手に悩み、ずっと後悔をしていた。
わたしは一体何を求めていたのだろう。
決して冷静になってしまった訳ではない。
ただ、あっという間に過ぎ去っていった日々──積尸気さんとの出会いや探偵ごっこ、犯行現場の空き地巡りにザクロ林など、混沌の記憶がわたしの脳内の整理を困難にしている。そしてそれらを咀嚼できないまま、わたしは毎日仕事を続けてスクーターを走らせている。
変わり映えのしない風景にいつもの空気。
ここ月辰町は相変わらず密室だ。
グラデーションという思考と事件の解決によってこの密室を突破できたかのような錯覚をおぼえていたが、密室を破った先にあったのはより巨大に囲われた密室だった。
そして、息抜きと現実逃避に訪れていた『Cafe 魔術師』はもう無い。
今日は休日だ。わたしはアテもなく走らせていたスクーターをコンビニの駐輪場に停めた。
空を見上げる。
わたしは事件を通して様々な人に出会い、その人生の一端に触れてきた。
しかし、今もこうして一人ぼっちだ。
子どもの頃の──あの業火の記憶に焦がされた日からずっと、一人だったような気がする。
一人で居るのがあまりに寂しいから、魔にも聖にも振れられる中庸──グラデーションの概念にたどり着いたのだろうか。わたしは一人で居るのがそんなに怖かったのだろうか。わたしはそんなに弱かったのだろうか。
少し俯いてコンビニの自動ドアをくぐる。
コンビニは場所による違いは殆ど無い。どこに行ってもほぼ同じ空間が展開されている。
──どこに、行っても、同じ。
気分が少し重くなった。だがそれを足取りには出さず、お菓子とスイーツのコーナーを巡る。
『おつきさまのうらがわ』という名前のグミが目に入った。
黄色いパッケージの可愛らしいグミだった。
月の裏側。
わたしが漠然と憧れていたこの世ならざる世界。
このパッケージにたどり着けたのが、あの事件と思考の迷宮の結果なのかもしれない。そう思うと、少し可笑しくなった。
『おつきさまのうらがわ』を手に取り、少し店内を歩く。色々な商品があり、ぽつぽつとお客が居る。
何かの縮図のようにも思えるが、何の縮図なのかは判らない。
多様と思える世界もチェーン店のような画一的なコンクリートで囲まれているのだろうか。
──駄目だ。
考えすぎだ。
わたしは『おつきさまのうらがわ』グミだけを買ってコンビニを出た。
相変わらずお行儀が悪いが、スクーターに腰掛けてパッケージを開ける。黄色く、丸いグミが出てきてバナナの香りを薄っすらと漂わせた。
ひとつ摘んで頬張る。
甘い。
そのまま、わたしは黙ってグミを食べ続けた。
珍味と高級酒を好んでいた積尸気さんを何故か思い出す。あの人はこんなものは食べないだろうな。
だが、あの魔王は魔王で、わたしはわたしだ。
多様な人と多様な世界。
頭では分かってはいるけれど、なかなか世界に刻まれない概念。
その齟齬で、今回のあの事件は起き、わたしは迷宮に迷った。
──結果。
わたしは『魔の葬送』に初めて訪れる以前から、一歩も進んでいない気がする。何も変わってはいない感触がある。
それはこの月辰町という巨大な密室の呪いであり、わたしの無力さの証だ。
──今から。
何もかも捨てて、このスクーターで遠くに行こうかな。
ふと、そんな事を思った。
やろうと思えばどこにでも行ける。
そんな可能性までもがこの町に封じられる謂れはない。
ただ、積尸気さんの魔論の記憶が、うちの社長の頼もしさが、生活のすべてがわたしの衝動にブレーキをかける。
神代さんに占ってもらったら、中条さんや北原さんたちに相談したら、今のわたしの気持ちをどう表現するのだろう。
事件の被害者であった平山翔太さんは、この町をどう思っていたのだろう。
空になったグミのパッケージをゴミ箱に捨てると、わたしはスクーターのエンジンをかけた。
午後。初夏の陽射しもかなりきつくなってきている。夏が来る。
オーバーオールとハンチング帽といった服装もそろそろ暑くなる。
変化は着実に訪れるのだ。
いつか、わたしも変わりたい。
──まだ太陽は高いけど、もう帰ろうか。
わたしの家へ。この月辰町に住まっている場所へ。
コンビニの駐車場から出ると、役所通りへと向かう。風は熱気を帯び始め、すれ違う歩行者や車は心做しか増えているように見える。その人たちの目に、オーバーオール姿でルーフが付いたスクーターを走らせるわたしの姿はどう映るのだろう。この町の一部として見えるのだろうか。それとも、溶け込めない異物として目立つのだろうか。
──まさか。
失敗を積み重ねた素人探偵だとは思われまい。そしてそれが魔王に精神的支柱を求めた弟子入り志願者だとも。
国道の三車線道路をしばらく走ると道路は二車線に減少した。
そして、あの日、「ここを左に曲がってみよう」とふと思いついた交差点──月蝕通りへの入口、その赤信号にスクーターを止めた。
ちら、と左側を見る。
この道に入り、わたしは『魔の葬送』と、マスターのルルイエさんと、そして──積尸気さんと出会った。
もう懐かしさすら覚える記憶。わたしが異界へと足を踏み入れたあの日。
──だが。
信号が青になる。
わたしは、左へは曲がらず、真っ直ぐにスクーターを走らせた。
恐らく、わたしはもう二度とあのバーへと行く事は無いのだろう。
漠然とした予感があった。
わたしは、『魔の葬送』へと入る資格を剥奪された。
魔王・積尸気学祖に教えを請うためのトークンはもう胸の中に残ってはいない。魔ではなく、聖でもなく、グラデーション──段階ごとの色を経て多様に行きていくために、あの魔王談に傾倒していてはならないのだ。それは、わたしがいつかどこか遠くへと、この町から出ていくための条件でもある。わたしが、わたしに科した必須条件。
スクーターでいつもの国道を走っていく。
さよなら。積尸気さん。
ありがとう。ルルイエさん。
少し景色が滲むのを感じながら、やがてわたしは帰宅した。
夕方が迫る中途半端な時刻。これからの用事も特になく、わたしはハンチング帽とオーバーオールを脱ぎ、家着に着替えた。そしてベッドの上にうつ伏せになる。
スマホでフィード購読しているニュースサイトを開いた。この小さい町での事件の事などやはり取り扱われてはおらず、芸能ニュースとネット炎上の話題がほとんどだった。月辰町以外に住むどこかの誰かたちも、こういう話題を好んで見ている。そんな現実をゆっくりと、しかし確実に突きつけられたような気分になり、わたしは軽く溜め息を吐いて動画サイトを開いた。
いつも見ている犬の動画を再生する。
こういうひとときが積もり積もっている。わたしが住まう月辰町の毎日。
何時しか、わたしは目を瞑っていた。
胎児のように丸まり、寝息を立てていた。
そして、夢の中のわたし、もうひとりのわたしめいたわたしは、自宅アパートでも、月辰町でも、この現実世界ですらない場所に遊んでいた。
たくさんの見覚えがある人々の意識と、ふっとすれ違っていく。
名前も知らない人や配達先で一回会っただけの人。『魔の葬送』の中条さんや北見さんにルルイエさん。ザクロ林の神代さん。会った事もない事件の被害者の平山翔太さん。様々な人々の意識が、通りすぎて行き、近付いて来、わたしの意識をすり抜けてどこか遠くに消え、また現れる。
ただ、そこに積尸気さんの意識だけは見付けられなかった。
――魔王。
あの魔王の意識だけは、わたしはこの夢の中でキャッチできなかった。
おつきさまのうらがわ。
事件を通してわたしがたどり着いた場所。
わたしがこの町から出てたどり着きたかった場所。
――恐らく。
それが、ここだ。
そして、ここには積尸気さんの姿は無く、わたしも姿を保っていない。
いつの間にか積み重ね過ぎていたあらゆるものを月辰町に置いて、わたしはこの場所へと到達した。夢の中へ。あれほど望んでいた遠くの世界へ。
「行くのか」
呼び掛けられた。
とても聞き覚えのある、威厳に満ちた声で。
それは積尸気さんの声。
姿――いや、意識は見えないけど、ここにもやはり存在したあの魔王の声。
畏れに震えるような、しかしどこか懐かしいようなトーンで、魔王はわたしに「行くのか」と問い掛けた。
――そして。
わたしは。
目が覚めた。
カーテンの隙間から幾筋かの陽光が結ばれている。朝になっていた。
そして、とても重大な決断を迫られているような、そんな気がする。
わたしはベッドの上で上半身を起こすと、膝を抱えた。
――行くのか。
その積尸気さんの問いには、答えられていない。
わたしは、どこに行くのだろう。
今は、どこに居て、何をしているのだろう。
――何も。
分からない。
本当に、何も分からない。
――ただ。
この月辰町で起きたあの事件は確かに在ったし、わたしは事件に関わった。そして自分の無力さを知り、エピローグとして――おつきさまのうらがわに、たどり着いた。それは事実だ。
ずっとどこか遠くに行きたかった。
こんな閉塞感に満ちた地方から逃げ出したかった。
わたしの願望は叶えられたのだろうか。
――その時。
充電中ケーブルを挿しっぱなしにしていたスマホから通話の着信音が鳴った。何かに対するアンサーを、優しく伝えるように。
スマホの画面には、わたしがこころの奥底で待ち望んでいたのかもしれない名前が表示されている。
「早音さん」と。
わたしは、スマホを手に取り、おつきさまのうらがわから通話に出た。