「……あの、私の方からもひとつ伺ってもよろしいでしょうか?」
「え? ええ、どうぞ」
寡黙な翠の方から話しかけられるとは思っておらず、思惟にふけっていた楽毅は驚き、声が少し上ずる。
「楽毅どのは異国の血を継がれているとお見受けいたしますが……」
「ああ、やっぱり気になる? 気味が悪いもんね」
そう言って、特徴的な赤い髪をひと撫でする。
「いいえ、そういうワケでは……。とてもおキレイだと思います」
「ふふ、ありがとう」
楽毅がうれしそうに笑う。
すると、なぜか後ろにいる楽乗がムッとしかめた顔を翠に向けるのだった。
「母がね、異国人だったの」
「だった?」
「母はわたしが物心ついたころに亡くなったらしいから、ほとんどその記憶はないの。父も母については何も教えてくれないから、どこの生まれの人なのかさえ分からないのよ」
「そう……でしたか」
同情を感じたのか、翠の口調に哀愁の色がこもる。
「私は楊商会の一員としてこれまで世界各地を廻り、様々な国や人を見てきました。その経験から察するに、恐らく楽毅どののお母上は印度よりさらに西──波斯か希臘辺りの血筋ではないかと思われます」
「波斯……希臘……」
楽毅はその国の名を耳にするのは初めてであり、それを聞いてもどこの事なのかいまいち想像がつかずにいた。
「今より四十年ほど前、馬基頓という国のアレクサンドロスという名の王が波斯や希臘をはじめとした国々を次々に併呑しながら東へ大遠征を行ったことはご存知ですか?」
「ええ。最後は印度にまで攻め上り、その脅威はこの中華大陸に至る寸前だったと聞き及んでいます」
「その通りです。アレクサンドロスの死後はその遺臣達が王族を殺害して広大な領土を奪い合い、今は複数の国に分裂した状態となっているのです」
「この中華大陸と似たような状況なのですね?」
翠は前方に目を向けたままコクリとうなずく。
この中華大陸も遥か昔に武王が【周】王朝を打ちたて、功臣達がそれぞれ領土を賜り平穏に治めていた。しかし時が経過するにつれ異民族の侵攻や各国の公主間の争いが激化し、王朝の権威は形骸化していったのだ。
──それにしても、商人の見聞はやはりすばらしいわ。
楽毅は臨淄の街でも多くの商人と接してきたが、中華大陸の外にまで足を運ぶ者は少なく、いたとしてもせいぜいが印度までであった。
「……ねぇ、翠さん。楊商会は世界各国を廻ってるって言ってたけど、西の果てを見た事はあるのかしら?」
未知なる異国に更なる興味を抱いた楽毅が訊ねる。
「果てはまだ見た事はありません。羅馬という国がこれまでで最遠の旅でした」
「羅馬? よかったらその国の事、詳しく聞かせていただけない?」
こうして楽毅達は翠が語る遠い異国の話に耳を傾けながら、生まれ故郷である【中山国】への帰路を進むのだった。