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第9話 それはすさまじいな

 邯鄲かんたんってから三日目──


 楽毅がくき達を乗せた馬車は、ついに【ちょう】軍が攻め落とした【中山国ちゅうざんこく】の領域へと入った。


 迂回して霊寿(れいじゅ)の西に廻り、そこから【中山国ちゅうざんこく】へ入国する案もあったが、それでは時間がかかり過ぎる事と、昨日楽毅がくきが懸念したようにすでに【ちょう】軍がそちらの方まで廻っている可能性もあった。どの道【ちょう】軍を避けては通れないので、結局そのまま北へと直進する道筋ルートを選択していた。


 国境付近位置していた砦は原型を留めない程に崩壊し、そこかしこに転がる兵士の死骸はすでに鳥や獣などによって食い尽くされ、甲冑と骨のみという無惨な姿をさらしていた。


 激しい戦闘の痕跡が生々しく残るその地を、楽毅がくき達は心を痛めながらもその惨状をしかと胸に刻み前進を続けた。


 しかし、その先に点在する砦には戦闘の痕跡どころか【ちょう】軍の姿も【中山ちゅうざん】軍の姿見当たらず、無人の状態であった。


「【中山ちゅうざん】軍は最初の砦が陥落した為に戦意喪失して東垣とうえんまで撤退。【ちょう】軍は無人の砦には目もくれずひたすら前進……。そんな所でしょうか?」


 人っ子ひとりいない砦の横を悠々と通り過ぎながら、楽毅がくきは己の見解を口にする。


「何とも情けない……。【中山ちゅうざん】人の気骨を示したのは最初の砦だけかッ!」


 楽乗がくじょう憤怒ふんぬと共に馬車の座席に拳を振り下ろす。


「……そろそろ東垣とうえんを包囲している【ちょう】軍が我々に気づくはずです」


 馭者ぎょしゃ席からツェイが振り返り、重々しい空気が漂う馬車内に向けて淡々と告げた。


「かねてからの手はず通り、お二人には私と同じ商人として振るまっていただきます」

「……はい。心得ております」


 今にも消え入りそうな弱々しい声で楽毅がくきが答える。楽乗がくじょうも小さくうなずいただけで、何も言葉を発する事は無かった。



 それから数時間後、ツェイは前方から砂ぼこりを巻き上げながら近づいて来る騎影を視界に捉えた。


「騎兵がこちらに接近中。その数、およそ十騎。旗印から【ちょう】軍と思われます」


 ツェイが冷静な口調で、端的に楽毅がくき達に伝える。


「ついに来ましたか……」


 楽毅がくきはそうつぶやき、大きめの布を頭に覆って先ほど結び固めた紅い髪を完全に隠す。


 楽毅がくきはこれまで人生の大半を邸宅内で過ごしていたため、【中山国ちゅうざんこく】内でもほとんど秘された存在だ。だから、『【中山国ちゅうざんこく】に紅毛碧眼こうもうへきがんの娘がいる』という噂を【ちょう】軍の誰かが耳にしているとは思えない。

 しかし、それでも彼女は念を入れて特徴的な赤い髪をひた隠しにする事にした。


 ──髪は隠せても瞳の色まではあざむけない。なるべく陽の差さない場所にいないと。


 楽毅がくきは自身が備え持つ特徴によって【ちょう】軍に懐疑を抱かせる事の無いように、細心の注意をその胸に刻みこんだ。


 やがて馬のひずめが大地を雄々しく蹴り上げてける音が、馬車内にも届く。


「止まれ。止まれーいッ!」


 緑色の甲冑をまとった馬上の男達が叫びながら、瞬く間に先頭のほろ馬車をぐるりと取り囲んだ。


 ツェイ手綱たづなを引いて馬を止めると、後続の荷馬車もそれにならって次々と止まる。


「我々は【ちょう】の太子たいし趙章ちょうしょう様が預かりし後方部隊の者である。その方ら、商人と見受けるが一応積み荷を改めさせてもらうぞ」


 隊長らしき壮年の男が、威厳のこもった声で言う。


「これはこれは、お勤めご苦労様でございます」


 ツェイ馭者ぎょしゃ席から降り、


「私共はヤン商会の者で、私は隊長を務めますツェイと申します。どうぞご確認くださいませ」


 【ちょう】兵達に向けてうやうやしく拝礼する。

 うむ、と言って【ちょう】兵達は下馬し、一斉に散る。


「ここには娘が二人……商人か」


 男が馬車のほろをまくり上げ、中でジッと座っている楽毅がくき楽乗がくじょうの姿を確認する。


「同じヤン商会の仲間でございます」


 ツェイの説明に小さくうなずくと男は、


「お前達も外に出よ」


 と二人にうながした。

 言われた通り馬車を降りた楽毅がくき達は、ツェイの隣りにたたずむ。


「隊長。積み荷はと鉄でした」


 積み荷の確認を終えた兵士達が男の元に集い報告する。


「お前達は武器を扱うのか?」

「いかにも。ヤン商会は武器商でございます」

「若い娘が三人もおるが、物騒ではないのか?」

「私共はただの娘ではありません。私は一通りの武芸を叩きこまれており、そんじょそこらの男に決して遅れを取る事は無いと自負しております」


 そしてツェイは隣りの楽毅がくきを指し示し、


「この娘は羊毅ようきと申しまして、類まれなる幸運の持ち主でございます。彼女のおかげで道中は野盗に襲われる事も無く、さらに天気は常に快晴で快適な旅を送れております」


 と言い、次に楽毅がくきの隣りの楽乗がくじょうを指し示し、


「この者は羊乗ようじょうと申しまして、ご覧の通り男勝りの体躯たいくを誇り、暴れ狂う猛牛を素手で叩き伏せるほどの剛の者でございます」


 などと平然とした顔で適当な言葉を並べるのだった。


 楽毅がくきは笑いを、楽乗がくじょうは怒りをこらえてうなずいた。


 がく姓では確実に怪しまれるので“よう”を偽名とする事は事前に打ち合わせしたとおりであったが、まさかこのような怪力乱神かいりきらんしんの者にされるとは二人とも思わなかっただろう。


「牛を素手で? そ、それはすさまじいな……」


 ツェイの出まかせが功を奏し、【ちょう】兵達の好奇の視線は楽毅がくきよりも楽乗がくじょうの方へと向けられる。


「ど、どうも……」


 楽乗がくじょうは引きつった笑みを浮かべながら、その羞恥しゅうちに耐えるのだった。


「それはそうとお前達。これより北は戦地であるが、一体どこへ向かうつもりだ?」

「【中山国ちゅうざんこく】でございます」

「【中山国ちゅうざんこく】だと⁉︎」


 堂々たる態度のツェイの口から何の躊躇ためらいも無く放たれたその言葉に、男達は驚き戸惑う。


「お前達、【中山国ちゅうざんこく】が今、我が【ちょう】軍と交戦中と知って言っておるのか?」

「もちろんでございます」


 【ちょう】兵達は拍子抜けし、ついには小さく固まってコソコソと相談を始める。


 戦を仕かけている【ちょう】は当然武器を欲しており、武器商にとっては高値で売る好機チャンスであるはずだ。にも関わらず、彼女達がなぜ【ちょう】に武器を売らずにわざわざ危険をおかしてまで劣勢にある交戦国に向かおうとしているのか、彼らには理解出来なかった。

 しかし、ここで彼女らを邪険に扱い一方的に追い払ってしまうと、後々に商人の情報供給網ネットワークによって【ちょう】の悪評が中華大陸中に広まり、商人が【ちょう】に寄りつかなくなるという恐れもあった。


「お前達、我々について来い。趙章ちょうしょう様に裁断たまわる」


 男はそう言って再び馬にまたがる。

 結局、自分達では判断が下せないので上の指示を仰ぐ事にしたのだ。


 ──【ちょう】の太子たいし趙章ちょうしょうをこの目に納める事が出来る。


 楽毅がくきはこれを幸運と判断し、敵将──引いては次の【ちょう】王となる男の器量を見定めてやろう、と自らを鼓舞するのだった。

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