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第5話 何だそのはしたない姿は⁉

 背中を流し終えた楽毅がくき達は、再び湯船にかる。

 楽間がくかんわだかまりを捨てたようで、みんなの和の中に加わり、楽毅がくき達の帰国の旅の話を興味深く聞いていた。


 談笑していた楽毅がくきはふと、【ちょう】軍陣営の中で出会ったしょくと呼ばれたあの少年の事を思い出した。彼女にとっては裸の姿を堂々とのぞかれたというまわしい記憶があるが、その少年の素性がどうしても気にかかったのだ。


「ねぇ、ツェイしょくという名の公子が【ちょう】にいる、なんて話は聞いた事無いかしら? 歳はわたしと同じくらいで」

しょく、ですか? ……いいえ、私の知る限りでは【ちょう】には太子たいし趙章ちょうしょう以外には公子こうし趙何ちょうか趙豹ちょうひょう公女こうじょ趙勝姫ちょうしょうきがいるだけで、いずれも楽毅がくき姉さんより年下です」


 その問いに、ツェイは商人として得た知識を頭の中で巡らせ、よどみ無く答えた。


「そう、ですか……」


 だとすれば、あの少年は一体何者で、なぜ【ちょう】軍の中にいたのか余計に分からない。


 ただ、と言ってツェイは続けた。


「この前亡くなった【しん】の武王ぶおうの弟に贏稷えいしょくという名の公子こうしがいて、その方は確か【えん】の国にご遊学されているはずです」

「【しん】の贏稷えいしょく……。【えん】に遊学……」


 【しん】は中華大陸の西端に位置する強国で、【えん】は中華大陸の北東に位置する小国である。この両国を直線で結んだ間には、【ちょう】と【中山国ちゅうざんこく】がある。


 もしも楽毅がくきが出会ったあの少年がツェイの言う【しん】の公子こうし贏稷えいしょくだとしたら──


 彼が敵軍陣営にいた理由を、楽毅がくきは自分が【ちょう】の武霊王ぶれいおうになったつもりで考察し始めた。


 【しん】の武王ぶおうの死後、なぜか【ちょう】陣営の中にいた公子こうし──

 攻勢にあった【ちょう】軍の突然の停滞──

 そして、【ちょう】と【えん】は現在同盟関係にある──


「……そうか、そういう事だったのね!」


 頭の中でバラバラだった欠片ピース一処ひとところに納まると同時に、楽毅がくき武霊王ぶれいおうの深謀の恐ろしさに気づき、勢い良く立ち上がった。


「すみませんが、先に上がらせてもらいます」


 そう言い残し、楽毅がくきは急ぎ足で浴室を後にする。

 そこに残された者達は、何事かと問う暇も無いままその後ろ姿を見送るのだった。


 楽毅がくきは脱衣所の衝立パーティションにかけてあった大きな布をはぎ取るとそれを体に巻き、そのまま流れる様に廊下へと飛び出し、楽峻がくしゅんのいる部屋へと駆け出す。


 途中で女中の者とすれ違って驚いた顔をされるが、ゴメンなさい、と言ってそのまま駆け抜ける。


「父上ッ!」


 目的の部屋に猛然と飛びこみ、灯火の前で竹簡ちくかんに目を通している楽峻がくしゅんに呼びかける。


楽毅がくきか。うん? な、何だそのはしたない姿は⁉︎」


 暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる娘のあられもない姿に、楽峻がくしゅんは思わず取り乱した。


「そんなことよりも父上、すぐに街中の工人を招集してください。事態は急を要します!」


 楽毅がくきは意に介さずそう叫んだ。

 楽峻がくしゅんはその言葉の真意を問うよりもまず、彼女の鬼気迫る剣幕に気圧けおされるばかりだった。


「近い内に【ちょう】軍の攻撃が再開されます。それに備えなければなりません」


 たたみかける様に、楽毅がくきは要点を敷衍ふえんしてそう続けて述べた。


 なぜ彼女にそのような事が分かるのか疑念が尽きない楽峻がくしゅんであったが、それが確かなら一大事である。


 【ちょう】軍は今、東垣とうえんまちを囲んだまま攻めあぐねている──

 それが【中山ちゅうざん】軍の見解であり、過去に【ちょう】を攻めて勝利した経験も手伝ってか、完全に彼らを見下しているきらいがあった。

 楽峻がくしゅん自身も油断こそしていないものの、【ちょう】軍の勢いは完全に止まったのでは、と思うようになっていた。


「……分かった。すぐに工人に招集をかけよう。だが、その前に──」


 楽峻がくしゅんはおもむろに立ち上がると、薄布一枚まとっただけの姿で部屋の前に仁王立つ楽毅がくきを指差し、


「まずは体をよく拭いて、きちんと服を着なさい。この非常時に風邪をひく訳にはいかないだろう?」


 父親らしい気づかいを見せた。


「やだッ! わたしったら、慌ててたから……」


 ようやく自分のあられもない姿に気づいた楽毅がくきは、自身の粗忽そこつぶりに顔を赤らめ、失礼しました、と言い残してそそくさとその場を後にした。


 パタパタという足音が遠ざかって行くのを確認した楽峻がくしゅんは、


「これでは胸を張って嫁に送り出せないな」


 娘の行く末を案じて苦笑するのだった。

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