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第6話 それは冗談です

 それから一時間程度間を置いて、がく邸の広間に楽峻がくしゅん楽毅がくき楽乗がくじょう楽間がくかん、それにツェイも加えた五名が一堂に会した。


楽毅がくきよ。【ちょう】軍の攻撃が近い内に再開されるとの事だが、その根拠を申してみよ」


 厳(おごそ)かな口調で、上座に座る楽峻がくしゅんが問う。


「はい。まず、【ちょう】軍が東垣とうえんを囲んだまま動かないのは攻めあぐんでいるワケではなく、とある用事が片付くのを待っているからです」


 楽毅がくきは父の顔をまっすぐ見据えたまま淡々と答えた。


「用事? それは何だ?」

「それは……【えん】に遊学している【しん】の公子こうし贏稷えいしょくを庇護(ひご)し、彼を無事に【しん】へと送り届け、次期【しん】王に据える事です」


 その言葉に、一堂から一驚の声が上がる。


「……なぜそんな事が分かる?」

「わたし達は帰国途中に【ちょう】軍の陣営内で一泊し、そこで偶然にも贏稷えいしょくおぼしき少年と遭遇しました。【えん】にいるはずの【しん】の公子こうしがそこにいた理由を推測すれば、答えはそれしかありません」


 楽峻がくしゅんは腕を組み、眉間にしわを寄せながら考えこんだ。


「……それはつまり、【ちょう】軍は東垣とうえんを囲んで我々の注意をそこに引きつけている間に【えん】からその公子こうしを引き取り、移送している。そういう事か?」


 父の見解に、楽毅がくきはコクリとうなずく。


「ですがお姉様。もしそうだとしたら、【ちょう】軍の【中山国ちゅうざんこく】遠征は実は公子の移送を遂行する為の陽動であるという事ですよね? ならば、それが完遂されれば陣を引いて帰国する、という可能性は無いでしょうか?」


 挙手と共に楽乗がくじょうが問う。


「そうであったら良かったのですが……」


 楽毅がくきはひとつ息を入れ、


「武霊王(ぶれいおう)の恐ろしいところは、【中山国ちゅうざんこく】遠征と【しん】国の公子こうし庇護ひごという全く異なる事項をひとつに捉え、それらを一連の流れで同時に遂行する事にあります」


 冷静な口調でそう述べた。


「つまり、【ちょう】軍の大半はすでに【中山国ちゅうざんこく】を囲むように西と北にも移動している。これらの軍はもともと【えん】から公子こうしを迎え入れる為のものだけれど、その用事が済めば今度はそのまま【中山国ちゅうざんこく】に一斉に攻め入る刃となる。そういう事ですね?」


 なおも首をかしげる楽乗がくじょうに代わって、ツェイが淡々と答える。


「その通りです」


 ツェイの思考の早さに感服しながら、楽毅がくきは大きくうなずく。


頃合ころあいを計って三方から同時に攻めこもうという腹づもりだったのか……」


 楽峻がくしゅんは途端に青ざめた。


 もちろんこれはあくまでも楽毅がくき揣摩臆測しまおくそくであって、確証がある訳ではない。しかし、もしもそれが本当に実行されれば、南方の東垣とうえんばかりに気を取られている【中山ちゅうざん】軍は未曾有みぞうの危機におちいる事だろう。


 果たして、楽毅がくき以外にその可能性に考えが至った者がこの国にいるだろうか?

 恐らく誰もいない、と、いまだに迷妄におぼれて現実を見ようとしない王と、それにへつらうだけの佞臣ねいしん蔓延はびこる宮廷の現状をかんがみて、楽峻がくしゅんは改めて国の腐敗を痛感するのだった。


「あの……ひとつたずねたいのですが?」


 先程から彼女達の会話をポカンとした表情で聞いていただけだった楽間がくかんが、おずおずとした口調で挙手と共に発言した。


「なぁに、楽間がくかん?」

「はい。武霊王ぶれいおうはなぜ同盟国でも無い【しん】の公子こうしをわざわざ庇護ひごするのでしょう?」


 その楽間がくかんの問いは、この戦国時代という特性を象徴するものであった。


 この時代、各国の公子こうしまたは太子たいしは他国に──主に同盟国に──遊学するのが大抵の習わしだった。

 王族を遊学させることは同盟の絆を確かめる為の手段であり、同盟関係が蜜月である内は公子こうしは厚遇され、関係が悪化すれば逆に冷遇される恐れがあった。やがて公子こうしが帰国して王、またはそれに準ずる有力者にでもなれば、彼らを受け入れた国はその処遇によってより親密な関係を築いたり、逆に反感を買って攻めこまれる可能性がある。


 戦国という非情の時代にあって信頼を測る為の道具とされた公子こうし達は、その実はていの良い人質に他ならないのだ。


「そうね。確かに不思議に思うかも知れないけど、言い換えれば、そこまでしてでも【しん】との関係を築きたい、という強い意思の表れじゃないかしら?」

「なるほど。これまであまり交渉を持たなかった【しん】に自分の意向をもたらす手段として、贏稷えいしょくという公子こうしに目をつけたワケですね?」

「そういうことね」


 楽毅がくきはそう答える一方で、楽間がくかんの理解の早さに感服した。


「なるほど。武霊王ぶれいおうは【えん】との交誼こうぎを持った時と同じ手段を、今度は【しん】に対しても行おうとしているのか……」


 楽峻がくしゅんが顎ヒゲを擦りながらつぶやいた。


 実際に武霊王ぶれいおうは、同様の手段を以前にも用いている。

 それは、楽毅がくきが生まれるよりも昔に【えん】国内で起こった内乱に端を発していた。


 数十年前に【えん】で生じた内乱──

 それに乗じて侵攻してきた【せい】軍によって【えん】王は討たれ、太子たいしも行方不明となった。【えん】の大半を制圧したものの、これを維持するのは困難と考えた【せい】はその対処に苦慮した。


 そこに武霊王ぶれいおうが、【かん】に遊学していた【えん】の公子こうしを招いて彼を玉座にえる事を提案。【せい】はこれを受け入れて【えん】から兵を引いたのだ。


 結局、それよりも先に行方不明であった【えん】の太子(たいし)が国都に帰還して王を名乗った為に武霊王ぶれいおうの提案は白紙となってしまったが、彼は【えん】と【せい】の両国に恩を売る事には成功したのだった。



「父上。武霊王ぶれいおうの巧妙な外交術によって【中山国ちゅうざんこく】が孤立無援となるのも時間の問題です。それを避ける為に、【せい】との交誼こうぎを早急に回復させるべきではありませんか?」


 鋭い眼差しで楽毅がくきはそううながす。


「それが難しい事くらい、お前にも分かっているだろうに……」


 楽峻がくしゅんは憂鬱の色をあらわに嘆息した。


「王号の一件から我が君は【せい】を嫌っている。憎んでいると言っても過言ではない。そして私とて、王号を称する事に反対した一員だ。我が君やその周囲にはべる側近達から冷眼を向けられておる。聞く耳など持たぬだろう」


 その言葉から苦渋がありありと感じられた。

 それでも、と楽毅がくきは居住まいを正し、


「【せい】に使者を遣わすべきです。たとえ【せい】王から助力を得られずとも、孟嘗君もうしょうくんに縋(すが)れば彼女はきっと義をもって立ち上がり、三千の食客ファンを率いて助けに来てくれるでしょう」


 熱意をこめて訴えた。


孟嘗君もうしょうくんといえど、わずか三千で【中山国ちゅうざんこく】が救援すくえるとは思えぬが」


 そう言う楽峻がくしゅんの言葉は、どこか冷めていた。


「父上。孟嘗君もうしょうくんは天下の頂点偶像トップアイドルです。彼女が動けば万民がその動向に注視し、彼女が働きかければ万民を動かす事も可能なのです」


 それでも楽毅がくき滔々とうとうと語り続けた。


「万民を動かすとは、また大風呂敷を広げたものだな、楽毅がくきよ」


 その様な事が出来るはずがない、と言わんばかりの口ぶりで楽峻がくしゅんは笑う。


「……わたしは実際に孟嘗君もうしょうくんにお逢いしました。その人格を肌で感じました。だからこそ分かるのです。あの方は弱者の懇請こんせいを決して無下むげには致しません」


 楽毅がくきはここに至ってようやく孟嘗君もうしょうくん──齋和さいかとの邂逅かいこうの事実を口にする。


「何だと⁉︎ お前は本当にあの孟嘗君もうしょうくんと逢ったのか?」


 ピタリと笑いを止めた楽峻がくしゅんは、思わず前のめりになる。


 はい、と楽毅がくきは事も無げに答えた。

 信じられない、といった顔で呆然とする楽峻がくしゅん


臨淄りんしつ前に、私もご一緒に拝謁はいえつしたので間違いありません」


 楽乗がくじょうが補足をかねて報告する。


「それに、孟嘗君もうしょうくんは父上の事を謹厳実直きんげんじっちょくと褒めておいででした」

「な、なにィ? なぜ孟嘗君もうしょうくんが何の面識も無いはずの私の事を知っているのだ?」


 驚きが畳みかけるように押し寄せ、楽峻がくしゅんは混乱した自身の心を整理しきれずにいた。


孟嘗君もうしょうくん食客ファンは中華大陸全土に及び、彼らが孟嘗君もうしょうくんの目となり耳となっております。だから、この会話もきっと……」

「な、何だと⁉︎」


 含みをこめた楽毅がくきの笑みに、楽峻がくしゅんは思わず周囲を見回した。もちろん、楽毅がくき達以外には誰の姿も見当たらなければ気配すら感じない。


「それは冗談です。しかし、実際に孟嘗君もうしょうくん情報網ネットワークは正に千里眼ともいうべき早さとひろさを誇っているのは確かです」


 楽毅がくきは涼やかな声で言った。

 楽峻がくしゅんはひとつ大きなため息を吐き出すと、


「分かった。明日、我が君に献言けんげんしてみよう。そのついでに、お前の役職もたまわるつもりだ」


 その決意を伝える。


 ありがとうございます、と楽毅がくきは深々と頭を下げた。

 可能性は極めて低いと理解しながらも、万が一その献策が受理された時は自分がその使者となって孟嘗君もうしょうくんと対面しよう、と楽毅がくきは淡い期待に胸をふくらませる。


 一方で、本当に孟嘗君もうしょうくん食客ファンが見聞きしている可能性を感じて深淵を彩る闇に目を向けた楽毅がくきは、


 ──孟嘗君もうしょうくん食客ファンが黒ずくめなのは、実は闇と同化する為なのでは?


 ふとそんな風に考えてしまうのだった。

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