それから一時間程度間を置いて、楽邸の広間に楽峻、楽毅、楽乗、楽間、それに翠も加えた五名が一堂に会した。
「楽毅よ。【趙】軍の攻撃が近い内に再開されるとの事だが、その根拠を申してみよ」
厳(おごそ)かな口調で、上座に座る楽峻が問う。
「はい。まず、【趙】軍が東垣を囲んだまま動かないのは攻めあぐんでいるワケではなく、とある用事が片付くのを待っているからです」
楽毅は父の顔をまっすぐ見据えたまま淡々と答えた。
「用事? それは何だ?」
「それは……【燕】に遊学している【秦】の公子・贏稷を庇護(ひご)し、彼を無事に【秦】へと送り届け、次期【秦】王に据える事です」
その言葉に、一堂から一驚の声が上がる。
「……なぜそんな事が分かる?」
「わたし達は帰国途中に【趙】軍の陣営内で一泊し、そこで偶然にも贏稷と思しき少年と遭遇しました。【燕】にいるはずの【秦】の公子がそこにいた理由を推測すれば、答えはそれしかありません」
楽峻は腕を組み、眉間に皺を寄せながら考えこんだ。
「……それはつまり、【趙】軍は東垣を囲んで我々の注意をそこに引きつけている間に【燕】からその公子を引き取り、移送している。そういう事か?」
父の見解に、楽毅はコクリとうなずく。
「ですがお姉様。もしそうだとしたら、【趙】軍の【中山国】遠征は実は公子の移送を遂行する為の陽動であるという事ですよね? ならば、それが完遂されれば陣を引いて帰国する、という可能性は無いでしょうか?」
挙手と共に楽乗が問う。
「そうであったら良かったのですが……」
楽毅はひとつ息を入れ、
「武霊王(ぶれいおう)の恐ろしいところは、【中山国】遠征と【秦】国の公子の庇護という全く異なる事項をひとつに捉え、それらを一連の流れで同時に遂行する事にあります」
冷静な口調でそう述べた。
「つまり、【趙】軍の大半はすでに【中山国】を囲むように西と北にも移動している。これらの軍はもともと【燕】から公子を迎え入れる為のものだけれど、その用事が済めば今度はそのまま【中山国】に一斉に攻め入る刃となる。そういう事ですね?」
なおも首をかしげる楽乗に代わって、翠が淡々と答える。
「その通りです」
翠の思考の早さに感服しながら、楽毅は大きくうなずく。
「頃合いを計って三方から同時に攻めこもうという腹づもりだったのか……」
楽峻は途端に青ざめた。
もちろんこれはあくまでも楽毅の揣摩臆測であって、確証がある訳ではない。しかし、もしもそれが本当に実行されれば、南方の東垣ばかりに気を取られている【中山】軍は未曾有の危機に陥る事だろう。
果たして、楽毅以外にその可能性に考えが至った者がこの国にいるだろうか?
恐らく誰もいない、と、いまだに迷妄に溺れて現実を見ようとしない王と、それに諂うだけの佞臣が蔓延る宮廷の現状を鑑みて、楽峻は改めて国の腐敗を痛感するのだった。
「あの……ひとつ訊ねたいのですが?」
先程から彼女達の会話をポカンとした表情で聞いていただけだった楽間が、おずおずとした口調で挙手と共に発言した。
「なぁに、楽間?」
「はい。武霊王はなぜ同盟国でも無い【秦】の公子をわざわざ庇護するのでしょう?」
その楽間の問いは、この戦国時代という特性を象徴するものであった。
この時代、各国の公子または太子は他国に──主に同盟国に──遊学するのが大抵の習わしだった。
王族を遊学させることは同盟の絆を確かめる為の手段であり、同盟関係が蜜月である内は公子は厚遇され、関係が悪化すれば逆に冷遇される恐れがあった。やがて公子が帰国して王、またはそれに準ずる有力者にでもなれば、彼らを受け入れた国はその処遇によってより親密な関係を築いたり、逆に反感を買って攻めこまれる可能性がある。
戦国という非情の時代にあって信頼を測る為の道具とされた公子達は、その実は態の良い人質に他ならないのだ。
「そうね。確かに不思議に思うかも知れないけど、言い換えれば、そこまでしてでも【秦】との関係を築きたい、という強い意思の表れじゃないかしら?」
「なるほど。これまであまり交渉を持たなかった【秦】に自分の意向をもたらす手段として、贏稷という公子に目をつけたワケですね?」
「そういうことね」
楽毅はそう答える一方で、楽間の理解の早さに感服した。
「なるほど。武霊王は【燕】との交誼を持った時と同じ手段を、今度は【秦】に対しても行おうとしているのか……」
楽峻が顎ヒゲを擦りながら呟いた。
実際に武霊王は、同様の手段を以前にも用いている。
それは、楽毅が生まれるよりも昔に【燕】国内で起こった内乱に端を発していた。
数十年前に【燕】で生じた内乱──
それに乗じて侵攻してきた【斉】軍によって【燕】王は討たれ、太子も行方不明となった。【燕】の大半を制圧したものの、これを維持するのは困難と考えた【斉】はその対処に苦慮した。
そこに武霊王が、【韓】に遊学していた【燕】の公子を招いて彼を玉座に据える事を提案。【斉】はこれを受け入れて【燕】から兵を引いたのだ。
結局、それよりも先に行方不明であった【燕】の太子(たいし)が国都に帰還して王を名乗った為に武霊王の提案は白紙となってしまったが、彼は【燕】と【斉】の両国に恩を売る事には成功したのだった。
「父上。武霊王の巧妙な外交術によって【中山国】が孤立無援となるのも時間の問題です。それを避ける為に、【斉】との交誼を早急に回復させるべきではありませんか?」
鋭い眼差しで楽毅はそう促す。
「それが難しい事くらい、お前にも分かっているだろうに……」
楽峻は憂鬱の色をあらわに嘆息した。
「王号の一件から我が君は【斉】を嫌っている。憎んでいると言っても過言ではない。そして私とて、王号を称する事に反対した一員だ。我が君やその周囲に侍る側近達から冷眼を向けられておる。聞く耳など持たぬだろう」
その言葉から苦渋がありありと感じられた。
それでも、と楽毅は居住まいを正し、
「【斉】に使者を遣わすべきです。たとえ【斉】王から助力を得られずとも、孟嘗君に縋(すが)れば彼女はきっと義をもって立ち上がり、三千の食客を率いて助けに来てくれるでしょう」
熱意をこめて訴えた。
「孟嘗君といえど、わずか三千で【中山国】が救援えるとは思えぬが」
そう言う楽峻の言葉は、どこか冷めていた。
「父上。孟嘗君は天下の頂点偶像です。彼女が動けば万民がその動向に注視し、彼女が働きかければ万民を動かす事も可能なのです」
それでも楽毅は滔々と語り続けた。
「万民を動かすとは、また大風呂敷を広げたものだな、楽毅よ」
その様な事が出来るはずがない、と言わんばかりの口ぶりで楽峻は笑う。
「……わたしは実際に孟嘗君にお逢いしました。その人格を肌で感じました。だからこそ分かるのです。あの方は弱者の懇請を決して無下には致しません」
楽毅はここに至ってようやく孟嘗君──齋和との邂逅の事実を口にする。
「何だと⁉︎ お前は本当にあの孟嘗君と逢ったのか?」
ピタリと笑いを止めた楽峻は、思わず前のめりになる。
はい、と楽毅は事も無げに答えた。
信じられない、といった顔で呆然とする楽峻。
「臨淄を発つ前に、私もご一緒に拝謁したので間違いありません」
楽乗が補足をかねて報告する。
「それに、孟嘗君は父上の事を謹厳実直と褒めておいででした」
「な、なにィ? なぜ孟嘗君が何の面識も無いはずの私の事を知っているのだ?」
驚きが畳みかけるように押し寄せ、楽峻は混乱した自身の心を整理しきれずにいた。
「孟嘗君の食客は中華大陸全土に及び、彼らが孟嘗君の目となり耳となっております。だから、この会話もきっと……」
「な、何だと⁉︎」
含みをこめた楽毅の笑みに、楽峻は思わず周囲を見回した。もちろん、楽毅達以外には誰の姿も見当たらなければ気配すら感じない。
「それは冗談です。しかし、実際に孟嘗君の情報網は正に千里眼ともいうべき早さと廣さを誇っているのは確かです」
楽毅は涼やかな声で言った。
楽峻はひとつ大きなため息を吐き出すと、
「分かった。明日、我が君に献言してみよう。そのついでに、お前の役職も賜るつもりだ」
その決意を伝える。
ありがとうございます、と楽毅は深々と頭を下げた。
可能性は極めて低いと理解しながらも、万が一その献策が受理された時は自分がその使者となって孟嘗君と対面しよう、と楽毅は淡い期待に胸をふくらませる。
一方で、本当に孟嘗君の食客が見聞きしている可能性を感じて深淵を彩る闇に目を向けた楽毅は、
──孟嘗君の食客が黒ずくめなのは、実は闇と同化する為なのでは?
ふとそんな風に考えてしまうのだった。