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第4話 何でもないですゥ

 【中山国ちゅうざんこく】の南方にこうという地がある。

 ほんの数か月前までは【ちょう】との国境に面していたこの場所も今は【ちょう】の領土に組みこまれ、一面に咲き誇る花の様に天幕テントと軍旗の群れが白銀の大地を埋め尽くしていた。帥旗すいきと共にこれだけの軍勢が留まっているという事は、この地に武霊王ぶれいおうがいるという事に他ならない。


 外は、はらはらと粉雪が華のように舞っている。まだ昼時にも関わらず辺りはまるで夕刻のような薄暗い影が差していた。

 しんしんと降り積もる雪を一歩一歩踏み固めながら、楽毅がくき楽乗がくじょうツェイの三人は威武をいかん無く誇示している【ちょう】軍の陣へとやって来た。

 三人とも外套コートを全身に羽織ってはいるが、それでも北方特有の冷気は彼女達を容赦ようしゃ無く呑みこむ。


「いよいよやって来ましたね、お姉様」


 緊張のこもった楽乗がくじょうの言葉に、楽毅がくきは静かにうなずいた。


「ええ。ここまで来たらもう腹をくくるしかありません」

「大丈夫です。もしも武霊王(ぶれいおう)がお姉さまに危害を加えようものなら、私が命に代えてもお護り致します」


 無骨な甲冑に覆われた自らの胸をドンと叩き、楽乗がくじょうは力強く言い放つ。その隣りに控えるツェイも、言葉こそ発しないもののコクリとうなずき同意を示す。


「ありがとうございます。無事に交渉をまとめられるよう最善を尽くしますわ」


 二人の忠義に楽毅がくきは笑顔で応えた。


 意を決した三人は、【ちょう】軍の陣中へと足を踏み入れる。この寒さで【ちょう】兵のほとんどは天幕テントにこもっているようで、簡易でしつらえた柵の前で見張り番がひとりたたずんでいるだけだった。


「警備がひとりとは、ずいぶんとナメられたものですね」


 楽乗がくじょうが怒りを含ませて言うと、


「それだけ自信があるという事なのでしょう」


 楽毅がくきは極めて平静な声で返した。


「しかし、あの見張りの者はずいぶんと幼い娘のようです」


 ツェイがそう言うと、楽毅がくきは目をしばたかせながらそちらをジッと見やる。しかし、視力が良くない楽毅がくきには人らしき輪郭がぼんやりと視認できるだけで、見張り番の性別も年の頃も判別がつかなかった。

 さらに近づいてみると、警棒らしきものをたずさえたその見張りの少女は退屈そうに足で雪をこね回していた。


「すみません。【中山国ちゅうざんこく】から講和の使者として参りました楽毅がくきと申します。【ちょう】王にお目通り願います」


 ツェイたずさえている使者の白旗を指し示し、楽毅がくきが涼やかな声で伝える。

 見張りの少女は大きな目をぱちくりとさせながら楽毅がくきをしばらく凝視する。


「……あの、何かわたしに不審な点がありましたでしょうか?」


 穴が開くほど見つめられるのでそうたずねると、


「……スゴい美人さんですゥ」


 少女は頬を赤らめながら心無しかうっとりとした表情でつぶやいた。

 しかし、すぐにハッと我に返ると、


「す、すみません、何でもないですゥ!」


 慌ててかぶりを振った。


「【中山国ちゅうざんこく】の楽毅がくきさんですね。お待ちしておりました」


 少女はそう言って手にしていた棒を柵に立てかけ、陣内へと三人をいざなう。

 天幕テントにこもっていた【ちょう】兵の幾人かが、顔を出して楽毅がくき達に好奇の視線を向けている。


 ──こんな小さな女の子まで兵士をしているのか。


 先導する少女のか細い後ろ姿を見つめながら、楽毅がくきは同じ女性として親近感を抱くと同時に戦国という時代の無情を感じるのだった。


 しばらく歩き続けていると、前方に一際大きな幕舎ばくしゃが視界に映りこむ。あの中に武霊王ぶれいおうがいるに違いないと、楽毅がくき達は予感をいだいた。


「それでは少々お待ちくださいませ」


 案の定、少女はその幕舎ばくしゃの前で三人を留め、ひとり幕内へと入っていった。


 緊張を紛らわすように、三人はそろって深呼吸する。

 ほど無くして幕の内側から少女が顔を覗かせ、


「お待たせしました。中へどうぞ」


 幕布を開放し、人懐こい笑顔で三人を招いた。


 ──いよいよ武霊王ぶれいおうにまみえるのね。


 覚悟を決めて楽毅がくき達は足を踏み入れる。


「その前に、みなさんの武器を預からせていただきますゥ」


 しかし、すぐに少女ののんびりとした声に呼び止められる。

 貴人と面会する際に武器を携帯してはならないのは当然の習わしである。楽毅がくきツェイは素直に腰に帯びていた剣を差し出す。楽乗がくじょうはしばらく不服そうに顔を歪めていたが、やがて渋々と愛用のげきを差し出す。


「確かにお預かりしましたァ」


 少女は両手ですべての武器を受け取ると、幕の外へと消えてゆく。その際、楽乗がくじょう怪訝けげんそうな顔で少女の背中を視線で追っていた。


「どうかなさいましたか、楽乗がくじょうさん?」


 先に歩き出していた楽毅がくきが振り返りたずねる。


「あ、いいえ、何でもありません」


 楽乗がくじょうはかぶりを振り、すぐに楽毅がくき達の背後に続いた。

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