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第2話 それで充分です

 【ちょう】国の公子こうし趙何ちょうか

 武霊王ぶれいおうの実子ではあるが、その性質は父親とはまるで正反対で控えめで大人しく、そして女子と見まごうほど華奢きゃしゃであった。


「お加減はいかがですか、母上?」


 寝台の上に横たわる女性に向けて、そのかたわらからそっと声をかける趙何ちょうか


 その女性──趙何ちょうかの母・呉孟姚ごもうようは仰向けのまま視線だけそちらに送ると、弱々しく微笑む。


「そうですか……良かった」


 趙何ちょうかもそれに対して笑みで返す。

 しかし、彼は知っていた。目の前の女性の命がまもなく尽きようとしていることを。


 一年くらい前から重い病をわずらい、床に伏せがちだった彼女は時が経つにつれてそこから起き上がれなくなり、今では完全に寝たきりの状態となっていた。


 かつて武霊王ぶれいおうの寵愛を一身に浴びた美しき妃も、今では美白の肌は屍蝋しろうごとく蒼白くくすみ、頬もげ落ちたように痩せこけ、ふくよかだった唇もあちこちがひび割れてしまっている。


 朽ちかけの花のごとく様相ではあったが、しかしその瞳だけはまだ輝きを失ってはいなかった。


「私は公子こうしではありますが妹の趙勝姫ちょうしょうきのような華もなければ、弟の趙豹ちょうひょうのように賢くもありません。ですが……だからこそこうして母上の側にいられる。共に過ごせる。それで充分です」


 趙何ちょうかは、まるで自身に語りかけるように言うと、母の手をそっと握る。

 孟姚もうようはうれしそうに、それでいてどこか哀しげな面持おももちを向ける。


 母は──孟姚もうようは彼が人を慈しむ心を持っていることをうれしく思う反面、自身と同じ病弱な体質を引き継いでしまったがゆえに引きこもりがちで他の子のような活発な行動が出来ないことを、まるで自身の罪のように重く感じているのだった。


 趙何ちょうかの方も自身が太子たいしである義兄あに趙章ちょうしょううとまれていることを知っており、また、父である武霊王ぶれいおうも美しい母を愛しこそすれ、彼とは正反対の性質を持つ息子の趙何ちょうかには何の期待もいだいていないことも感じ取っていた。


 これで良い──


 日陰者としてこのままずっと母に寄り添い、母が亡くなったらその菩提ぼだいとむらいながらひっそりと一生を終えよう。


 しかし──


 このまま誰にも見向きもされないまま一生を終えて良いのだろうか?


 自分は何のために生きているのだろう?


 心の奥底でもやもやとした別の感情が生起して、彼自身に問いかけるのだった。


 そう感じるようになったのは、楽毅がくきと出逢ってからであった。


 あの日、妹の趙勝姫ちょうしょうきに誘われるがままに宮廷を抜け出したものの、彼自身は本当はそこまで乗り気ではなかった。


 しかし、ひと目楽毅がくきを見ただけでまずその美しさに惹かれ、彼女の話を聞く内にその生き方にも惹かれていた。


 自分と同じように人生に何の目的も見いだせなかった少女が、ここまで強く、そして高く飛翔出来たのだ。


 自分もくありたい──


 少年はこれまで感じたことの無い高揚感に身を震わせ、そんな思いをいだくようになったのだった。


 しかし、変化を切望するものの実際にどうしたらよいのか分からなかった。王族という身分が縛りとなり、楽毅がくきのように自由に外の世界へ旅立つことなど到底叶わないのだ。


 刹那、彼の頬を細長い指がそっとなぞる。


「母上……」


 浮かない顔のまま黙していたので心配になったのだろう。孟姚もうようは自由の利かない体でありながら必死にその細腕を伸ばすのだった。


「すみません。少し考え事をしておりました」


 苦笑し、その手を握り返す趙何ちょうか


「申し上げます」


 と、その時だった。

 ひとりの兵士が部屋の前で片膝をつき拱手こうしゅすると、


「ただいま主上しゅじょう宰相さいしょうと共に参られました!」


 淡々とした口調で告げる。


「そうか……すぐにお通ししろ」


 趙何ちょうかがそう告げると兵士は肯首こうしゅと共にすぐにその場を去って行った。


 武霊王ぶれいおう趙何ちょうかの部屋を訪れるの珍しいことでは無い。しかし、その目的はすべて寵愛する孟姚もうようの見舞いであり、それは【中山国ちゅうざんこく】遠征の直前でも遠征を終えた直後でも、彼は足しげく通っていたのだ。


 しかし、今回は武霊王ぶれいおうひとりではなく宰相さいしょうも随行しているという。


 ──ただの見舞いでは無いのか……?


 初めてのことに首をかしげる趙何ちょうか


 その疑問が拭えぬ内に、寝台のあるこの部屋に虎皮の衣をまとった大男が現れる。

 しかし彼は愛妾が横たわる寝台に向かうことなくその場に静止し、爛々らんらんみひらいた猛威の瞳で趙何ちょうかの方をただジッと見据えるのだった。


「……ご来訪いただき真に恐悦至極に存じます、父上」


 趙何ちょうかは猛獣に睨まれたかのごとくその鋭き眼光に耐えきれなくなり、そっと目を伏せ、うやうやしく述べる。


「本日は趙何ちょうか様にお伝えしたき儀がございまして参りました」


 虎皮の男の背後から現れた白髪の老人が、代弁するようにそう述べる。


 彼は【ちょう】国の宰相さいしょうで名を肥義ひぎという。武霊王ぶれいおうの教育係として彼が幼いころから補佐し、長年仕えてきた忠臣である。


「伝えたいこと……?」


 趙何ちょうかはますます分からなくなり、もう一度首をかしげる。


 肥義ひぎはコクリと小さくうなずくと、隣に立つ大男をチラリと見やる。

 趙何ちょうかもそちらへと視線を戻す。


 それでもなお黙したままの武霊王ぶれいおうであったが、少年がようやく目を合わせてきたのを確認すると、


趙何ちょうかよ。今よりそなたを太子たいしとする」


 感情の希薄な低い声色で、淡々と述べるのだった。



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