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第8話 何をのんきなことを

 【ちょう】の国都・邯鄲かんたん──


 その宮廷の廊下を、跳ねるような軽い足取りで歩くひとりの少女がいる。

 亜麻色の長髪をなびかせ、誰もが心を奪われそうな美貌を弛緩しかんさせるその少女──趙勝姫ちょうしょうきは、兄のいる部屋を目指していた。


 【趙】の公女こうじょである彼女には二人の兄がいるが、彼女が敬愛し、これから逢いに行こうとしているのは趙何ちょうかの方である。


 やがて目的の部屋がある廊下の角を曲がると、ちょうどひとりの少年がその部屋の中から現れる。


「お兄様! 趙何ちょうかお兄様!」


 弾むような声でその名を呼び、すぐさま駆け出す。


勝姫しょうきじゃないか。どうした? そんなに慌てて」

「どうしたもこうしたもありません」


 兄の前で立ち止まると趙勝姫ちょうしょうきは少し不機嫌そうに顔をしかめ、


「聞きましたよ。太子たいしに命ぜられたそうじゃないですか。そんな大事なこと、どうしてすぐに教えてくれなかったのですッ⁉︎」


 早口で問い詰める。


「ああ、すまない。昨日の今日のことだったからつい。それに私自身、まだ完全に受け入れられた訳では無いから」


 やや気圧けおされながら、趙何ちょうかは苦笑交じりに答える。


 趙勝姫ちょうしょうきはまだ不機嫌そうに頬を膨らませていたが、すぐに脱力して花が咲いたような満面の笑みを浮かべると、


「おめでとうございます! これからお兄様にお仕え出来ること、とてもうれしく思います!」


 趙何ちょうかの手を力強く握り、喜びを伝える。


「ありがとう、勝姫しょうき。これからいろいろと助けてもらうことになるが、よろしく頼む」


 微笑みで返す趙何ちょうか

 しかし、その面立ちにどこか陰を感じた趙勝姫ちょうしょうきは、


「何か懸念がおありみたいですね、お兄様?」


 すぐにその疑念を口にする。


 趙何ちょうかは驚いたように目をき、


「こんなすぐに見破られるようでは、私はまだまだ未熟だな」


 苦笑交じりにつぶやいてからひと息入れ、静かな口調で語り出した。


「もちろん、引き受けたからには命を懸けてその任を果たすつもりだ。しかし……予感がするのだ。何か国が乱れるようなことが起こるような、そんな悪い予感が」

「国が乱れる……」


 それを聞いて趙勝姫ちょうしょうきはすぐに長兄である趙章ちょうしょうのことを想起した。

 彼はとにかく気位が高く、今回の廃嫡の件で趙章しょうしょうが怒り狂ってすぐにでも趙何ちょうかに危害を加えるのでは、と彼女も懸念していたくらいだ。

 しかし、だいの統治を命ぜられた彼はそれに大人しく従い、今はそのための準備を着々と進めているという。

 静かに。あまりにも静かで従順なのが、逆に不気味さを際立たせているのだ。


「変なことを言ってしまったな。すまない。さっき言ったことは忘れてくれ」


 趙勝姫ちょうしょうきが真剣な面持おももちで考えこんでしまったので、趙何ちょうかは苦笑し、気にするなとばかりに彼女の肩をポンと叩く。


「おお、こちらにおられましたか、公女こうじょ様」


 刹那、廊下の向こうから白髪の老人が早歩きでやって来る。

 それは宰相さいしょう肥義ひぎであった。


太子たいし様もご一緒でありましたか」


 彼は趙何ちょうかの姿を視認すると、そちらにも礼を向ける。


「どうしたの、じいや?」

「はい。実は主父しゅほが自ら【しん】に偵察へ向かい昭襄王しょうじょうおうに逢う、などと言ってはばからないのです」

「父上が【しん】に?」


 驚嘆の声を上げる趙何ちょうか

 しかし、趙勝姫ちょうしょうきは大きな目を爛々らんらんと輝かせ、


「いいなぁ。私も行ってみたい」


 などとつぶやく。


「何をのんきなことを……」


 趙何ちょうかは呆れ気味に嘆息をもらし、肥義ひぎの方に向き直って問うた。


「それで、父上を止めることは出来なかったのか?」

「はい。どうしても譲れぬと申されまして……」


 皺だらけの顔にさらに皺を刻み、肥義ひぎは続けて言った。


「それに、主父しゅほは護衛はかえって足手まといだと言ってひとりで乗りこむおつもりなのです」

「ひとりで⁉︎ いくらなんでも無謀すぎる……」


 思わず天を仰ぐ趙何ちょうか

 しかし、主父しゅほの──武霊王ぶれいおうの性質を熟知している趙何ちょうかには、肥義ひぎは精一杯の説得をした上でそれでも曲げなかったのであろうことは察せられ、彼を責めるようなことはしなかった。


「はい。ですので私としてもせめて護衛だけはつけてほしいと思っておるのですが、主父しゅほが納得するほどの腕利きとなると探し出すのも骨でして……」


 肥義ひぎはそう言って懐から取り出した布で顔の汗を拭う。季節は秋だというのに、今日は夏に戻ったかのような暑さに見舞われているのだ。


「たしかに、父上を護れるほどの剛の者となると、【ちょう】はもとより中華大陸全土を探しても見つかるかどうか分からないな」


 趙何ちょうかは渋い顔で腕組みをし、気だるげにうなる。


「それが、実は【ちょう】にいるらしいのですよ。一騎当千の剛の者が」


 ひとしきり汗を拭い終えた肥義ひぎは布を仕舞うと、今度は力強い口調でそう言う。


「【趙国わがくに】にそのような豪傑が? 初耳だな」


 趙何ちょうかは思わず首をかしげた。戦場におもむいたことのない彼ではあるが、王族の責務としてきちんと戦いの記録は把握しており、【ちょう】に華々しい豪傑が存在するならば当然彼自身も知っているはずなのだ。


「私も最近まで知りませんでした。ですがいるのです。そうですよね、公女こうじょ様?」


 肥義ひぎはそう言って趙勝姫ちょうしょうきの方へ向き直る。


「え? 私⁈」


 【しん】がどういう国かと思いを巡らせていた彼女は突然話を振られ、思わずキョトンとしてしまう。


「まさか、勝姫しょうき……お前が一騎当千の豪傑だったとは。人は見かけによらないものだな」

「ちょっと、お兄様⁉︎ 華奢きゃしゃで可憐なこの私のどこが豪傑に見えるんですか?」


 趙何ちょうかの言葉に不満顔で抗議する趙勝姫ちょうしょうき。彼は苦笑と共に、すまぬ、とすぐさま謝意を示す。


「なんでも、先に行われた【中山国ちゅうざんこく】との戦で敵の奇襲を受けて危機に陥った主父しゅほを、たったひとりで救った者がおり、それが公女こうじょ様のお知り合いらしいのです」

「父上の危機をたったひとりで……」

「はい。目撃者の話ではその者は大岩を軽々と扱うほどの怪力乱神かいりきらんしんだとか」

「ふむう……」


 肥義ひぎの言葉を受け、考えこむ趙何ちょうか。たしかにその報告は彼自身も耳にしていたが、目撃者がほぼ皆無な上に非現実的な話だったので、宝珠の力を使った武霊王ぶれいおうがひとりで敵を蹴散らしたのだろう、と処理をしていたのだ。


「本当にそのような豪傑が【ちょう】にいたのか……。勝姫しょうき、知っているのか?」

「兵士たちの話によれば、その豪傑はよく公女こうじょ様のお側におられるとか」


 趙何ちょうか肥義ひぎの好奇に満ちた視線が少女に注がれる。


 ──私の知り合いで、大岩を軽々と扱うって……あのコのことよね?


 心当たりの人物が思い当たる趙勝姫ちょうしょうきは苦笑し、


「知っておりますが、おそらく本人を見たら驚くと思いますよ」


 二人にそう告げるのだった。

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