──紅色の髪の女といえば……。
武霊王は最近耳にした巷間の噂をふと思い出した。
それは、新たに【秦】の玉座に就いた昭襄王──嬴稷が紅色の髪の乙女の肖像画を描かせ、それを恨めしげに毎日眺め、その乙女の所在を血眼になって探している、というものであった。
中華大陸廣しといえども、そのような色の髪を持った人物は楽毅ひとりであろうし、彼は何らかの理由で楽毅の行方を追っているということだ。
嬴稷は、前王の急死によって突然空白となった【秦】国の玉座に据えようと武霊王自身が【中山国】遠征と同時進行で庇護に乗り出し、遥々燕の国から護送した少年である。
そして家臣の趙与から聞いた話によると、楽毅はそれと同時期に商人に扮してまんまと【趙】軍の目を欺いて中山国に帰国していたらしい。
──逢っていたとすれば、その時か。
武霊王はふう、とひとつため息をこぼし、今一度思考を巡らせる。
彼自身、嬴稷とは直接対面していない。部下から伝え聞いた話では、女好きでかなりの変わり者であるらしい。
──俺と同じだな。
ふと、武霊王の口元が緩む。
武霊王自身、若いころから常識に囚われない破天荒な性質であったために周囲の者から変わり者として煙たがられていたりもした。
城を抜け出して他の邑に赴き、そこに暮らす民を苦しめていた野盗を蹴散らしたこともあった。
虎皮が欲しいという理由だけで印度の商人を探し回り、それを高値で購入したりもした。
そんな彼だからこそ、古い慣習に囚われずに胡服騎射という制度を積極的に取り入れ、今では中華大陸最強の騎馬軍団を率いるまでになったのだ。
そして『英雄色を好む』という格言があるように、彼もご多分にもれず女性をこよなく愛している。
「ふむ」
武霊王はこの時何かを決断し、
「肥義! 肥義はおるか⁉︎」
老宰相の名を呼ぶ。
「ははっ、何でございましょう、主上。あ、いや、主父」
部屋の外から矍鑠とした足取りで白髪の老人がやって来ると、彼は玉座の前で拱手する。
「肥義よ。俺はこれから【秦】へ赴き、昭襄王に逢って来ることにした」
少年のように目を爛々と輝かせながら、武霊王は弾むような口調で告げる。
「は? 【秦】でございますか? 主父自らが交渉に向かわれるのですかな?」
「交渉ではない。偵察だ。俺の目で直接昭襄王を見てみたくなった」
「なるほど、偵察でございますか。主父自らが偵察……偵察⁉︎」
その言葉を嚥下してゆく内にだんだんと渋い顔になってゆく肥義は、
「なりませんッ‼︎」
強い口調でそう叫んだ。
「大事な御身が敵国偵察などという危険極まりないことをするなど言語道断! しかも相手は虎狼と呼ばれている【秦】。誰か別の者を遣わすべきです」
「この俺が自らの目で拝まなければ意味が無いのだ」
「血気盛んな若気の至りならばいざ知らず、ようやく後継者を定めた矢先ではございませぬか。主父がお強いのは重々理解しておりますが、どうかもう少し御身をいたわりくださいませ!」
その場に深々と叩頭き懇願する肥義。
長年側に仕えてきた功労者の必死な姿に、武霊王もさすがに心が痛んだ。
しかし、胸の奥に滾る熱情には抗うことは出来ない。それはまるで愛しき女との逢瀬を望む男の情念であり、止める術など誰も持ち得ないのだ。
「……肥義よ。思えばそなたとは長いつき合いであったな」
「主父……」
ひと呼吸置いてから放たれた武霊王の言葉は、いつになく穏やかで優しいものであった。
「いろいろと苦労をかけて申し訳ないと思っている。しかし、後の世代のためにも見極めなければならないのだ。将来難敵となるであろう【秦】の王を。だから頼む。これが俺の最後のワガママだ」
そう言って武霊王は臣下である肥義に深々と頭を下げる。
「主父、どうか頭をお上げください!」
覇王とは思えぬしおらしい言動に、肥義は思わず周章してしまう。
そして、ひとつため息をこぼすと、
「やれやれ。最後の願いとあっては私も受け入れざるを得ませんな」
ついに根負けし、苦笑と共に武霊王の提言を受諾するのだった。
「すまぬ、肥義よ」
「まあ、主父の無謀ぶりは今に始まったことではありませんからな」
そう言って互いに笑い合う。
「では明日、さっそく【秦】に向かいたい」
「護衛はいかがなさいますか?」
「護衛はいらん」
「それはなりませぬッ!」
刹那、白髪の老人は再び鬼の形相で一喝する。
「主父おひとりで偵察など言語道断! 必ず護衛をおつけください。それが出来なければ今回の件、やはり了承致しかねますぞ」
「だが、相手はあの【秦】だ。生半可な腕の者ではかえって足手まといだし、大人数で行ってはすぐに怪しまれるだけだ」
「むむむ……」
肥義は眉間に皺を寄せ、腕組みをして考えこむ。
「……主父、今しばらくお待ちください。私に心当たりがございます」
ふと何かを思いついた肥義は、拱手を残してすぐに踵を返し、老人とは思えぬ力強い足取りでその場を後にする。
「やれやれ。まだまだ長生きしそうだな」
その後ろ姿を見送りながら、武霊王は苦笑と共にひとりごちるのであった。