潮騒の音だけが、周囲を包んでいる。まるで世界に僕と彼女だけが、存在しているみたいに。
「アーリア……」
「もう、そんな顔で名前呼ばないでよ。帰れなくなっちゃうでしょ?」
諦めたみたいにはにかんで、半透明の幽霊みたいな彼女は振り返った。泣いている彼女の涙を払いたかったけど、僕の手は彼女の身体をすり抜けてしまった。
「遺書。読んじゃった……?」
「う、うん。読んじゃった」
「そっか。あはは……私の部屋には?」
「え、僕は入って無いよ?」
アーリアの家に入り浸るのはこの半年多かったけど、彼女の部屋には相変わらず入れて貰えなかった。何か秘密があるみたいなんだけど、彼女は、ほっとしたような妙な顔をしていた。
「実はね。カズマくんを連れてく事もできるの。神様だからね。それぐらいの無茶は効くの」
「え、じゃあ……!?」
「でもダメ。私が連れて行くと人間でなくなるのから、やっぱりダメ。カズマくんが、カズマくんでなくなっちゃうもん」
「そんな程度……!!」
「稟さんが、居るでしょ?」
「うっ……」
それ以上言葉が出なかった。僕がこの世界から居なくなったら、間違いなく彼女は傷つく。最悪後追いしかねない。もどかしい。何か手段は無いだろうか。と言うかそもそも。
「アーリアは、生きてるの……?」
「生きてるよ。死んだのは人間の身体だけ。それも心臓を取り戻せたから、長い時間をかければ、またこっちに来れるよ」
「…………どれくらい?」
「10年かな。もっと短いとは思うけど……」
10年。人が変わってしまうには十分な時間。そうなったらもう、ほとんどただのタイムトラベルだ。そんなの冗談じゃない。そんな長い間会えないなんて、絶対に嫌だ。
「アーリアは、生きてるんだよね?」
「そうだよ」
「なら。生きているなら、たとえ君が神様だって会いに行くよ。……約束だ」
「それは………………うん。いつか、私にたどり着いて、探索者さん。……ずっと、待ってるから」
朝日に、彼女が消えていく。まるでこの一年間が、夢か何かだったかのように。僕は今度こそ泣かなかった。きっとまた会える。僕たちが、そう望むなら。
◇◇◇
それから。さらに一年が過ぎて、僕たちは
世間ではクコスバレクとの国交が話題で、稟はスフィアと魔法の研究が抜擢されて、そのまま通信会社に研究員として就職。真司と聖さんは、発足したギルドの職員として、正式に働いている。
僕は卒業した今日。アーリアの家の持ち主であるキミ子さんに許可を貰って、彼女の部屋に入って、出発の準備を整えていた。
「それにしてもまぁ、そりゃ入るなって念押しするよね……」
アーリアの私室には、僕の手足に似ている、わざわざ改造した熊っぽい大きなぬいぐるみや、SNSから印刷して壁にかけたのだろうか、僕のイラストポスターなど、僕のグッズで溢れていた。どうやら手製の物も多いみたいだ。
百個以上あるし、一日二日で集められたり、作れる量じゃ無い。もしかしたらあの雨の日、
「ごぶ〜☆」
「そうだね、なるべく早く帰って来るから。お留守番お願いね?」
「ゴッブ★」
よく稟も来るけど、実質管理人のゴブリンに挨拶して家を出る。相変わらずネコたちが多い。鳥居の下で、稟が僕を待っていた。
「今から、スリランカに?」
「うん。着いて来るなよぉ? そっちは配信技術でアーリア見つけるって、大見得切ったんだからな?」
「ふんっ。私たちの方が、絶対先に先生を見つけて見せますとも!! ふふふっ」
「ははっ、じゃあ競争だな」
「うん。……元気で。スフィアで連絡が付かない所に、迂闊に行かないで下さいよ?」
「分かってるさ。……稟」
「はい? 何ですか?」
「アーリアを連れて帰ってきたら、すっごく大事な話があるんだ。……良いか?」
「それって……」
春風が吹く。桜色の風はどこか冷たいけれど、新鮮で暴虐なまでの生に満ちている。思い込みのどこか激しい。でも可愛い稟の笑顔に、どこまでもこの風は合っている気がした。
「先生だけ、待たせてるんじゃないんですからね。早く帰って来て下さいよ。……ちゃんと、全部。ぜんぶ、聞いてあげますから」
「ああ。すぐ帰って来るよ。……行ってくる」
重ねた唇が離れる。近かった桜色の頬も、ネコたちが門出を祝うように鳴いてくれて、何度も振り返って手を振って、僕はアーリアが待つであろう、島国へと旅立った。