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大きく開かれた窓辺から、夜風がゆるりと舞い込んでくる。うすら冷たい
「……それで。君たちはどこを歩いたんだ?」
ルビーレッドの液体がまろりと揺れるワイングラスを傾け、ジルベルトは深く息を吸い、目を閉じた。
芳醇で複雑な果実の香りと芳しい樽の香りが嗅覚をくすぐり、痺れるような舌の感覚が味覚を揺さぶる。
「いいえ、歩ける場所が見当たらなかったのです。なのでラムダさんが、二十センチほどのバラ園の塀の上を、歩こうと……っ」
「そんな狭い所を?」
「はいっ! ラムダさんと手を繋いで、まるで綱渡りでした。だけど……」
ジルベルトの隣にきちんと座るマリアが言葉を濁し、何かを思い出したようにくつりと微笑う。
「……だけど?」
「落っこちちゃったんです」
小卓にグラスを置きながら、ジルベルトが目を見張る。
「そんな所から落ちて、平気なのか?」
「ええ、大人の腰高ほどの高さだったので。私とラムダさんが手を取り合って、二人で仲良く花踊りをするみたいに、ふわぁっと……。その時に強い風が吹いてきて……」
ソファに座ったまま、膝に立てた片腕で顎を支え、夜着姿のマリアを見つめるジルベルトは身じろぎもしない。
それはまるで、ベッドに入る前の小さな子供が熱心におとぎ話を聞くようだ。
「私たち二人のスカートが風をはらんで舞い上がったのです。ちょうどその時、すぐ近くで薔薇の手入れをしていた庭師のお爺さんが『わはぁ』って、悲鳴をあげて。なのに、少しも目を逸らさないのです」
「それで。その庭師は、……
「はいっ。そうなのです、
「老眼でも離れた場所にあるものは見えるだろう」
「そうなのです!」
あはは、と軽やかに笑うと。
ジルベルトは膝の上から肘を外して姿勢を崩し、二客のグラスのうちの一客を取り上げて再び口元に傾げる。
甘く香る果実酒がワイングラスの中で煌めきながら揺れた。
「それは災難だったな。いや君たちもだが、たまたま居合わせたその庭師」
「ええ、そうかも知れませんね!」
マリアを見つめるジルベルトの眼差しは、甘く柔らかい。
肩をすくめて「ふふ…」花のように笑うマリア。ウエーブがかったストロベリーピンクの長い髪がさらりと揺れる。
「あの花瓶の薔薇は庭師からだというわけか。それで、君たちは?」
「はい。薔薇の切り花を抱えるほどにいただいたので、宮殿のお庭の散策をやめてお部屋に戻ったのです」
「なるほど……」
ジルベルトは、膝の上できちんと重ねたマリアの手を取る。
「この傷は?」
ふんだんに重なるレースの袖口をまくれば、赤いミミズ腫れが白い手首の内側にひとすじと、右手の甲には血を滲ませた傷がひとすじ。
「ぁ……はい。薔薇の棘が掠ってしまって」
「薔薇の花を与えておきながら棘の処理をせぬとは。その庭師は気が利かないな?! 傷跡が残るといけない。手当てをしよう」
「いいえ、擦り傷です、こんなの平気ですっ。放っておけば治ります!」
ジルベルトが立ちあがろうとするのをマリアが静止する。
「お気遣い、有難うございます。昨日も火傷の手当てをしてくださいました」
「あれはもう治ったか?」
「はい!」
ほらこの通り……と、マリアは目を細めて、包帯が取れた指先を眺める。
顔を上げれば、同時に顔を上げたジルベルトと視線がぶつかった。ジルベルトの蒼い瞳がふわりと微笑う。
「良かった」
それはあまりにも近い距離で、マリアの胸がどきりと脈打った。
「あ……の……」
マリアの右手は、ジルベルトの大きな手のひらにやんわりと包まれたままだ。無理に引っ張るわけにもいかず、どうして良いかわからずにマリアは目を泳がせる。
ジルベルトの親指が、マリアの手の甲を、す、と滑った。
「苦労をしてきた人の手だ。マリアは幼な子の頃から働いていたのか? そう言えば年齢の話をした事がなかったな。マリアは……
もうじき十八歳の成人だと、言いかけた。
──が、ふと思いどとまる。
誕生日が迫っているのは本当だけれど。
王女リュシエンヌの年齢が万が一にも帝国側に知られていれば、十八歳という正しい情報はジルベルトにも告げないほうが良いだろう。
──ジルベルトは、皇族かも知れないのですよね……?
「来月の初めに、二十歳になります」
聞いたばかりのラムダの年齢が咄嗟に口を突いて出た。ジルベルトは僅かばかり眉根を寄せる。
──月初めに誕生日を迎えるのか。
二十歳にしては幼い気もするが、華奢な身体つきの
「ジルベルト、あなたは……?」
「マリアの三つ年嵩だ」
「二十三歳……てっきり、もっと上だとっ」
「実年齢よりも老けて見えるとよく言われるよ」
「ふ、老けているなんだんて、違います! 言葉使いや振る舞いが、落ち着いていらっしゃるだけです」
それにしても。
ジルベルトはいつ、マリアの手を離してくれるのだろう?
「私の手は傷だらけで荒れているので、お目汚しにしかなりません。そんなふうに見つめないでください……っ」
「綺麗な手に、傷が増えてしまったな」
「へ?」
ジルベルトは、居酒屋から皇城に向かう馬車の中でそうしたように、マリアの右手をすっと口元に運び、長い睫毛を伏せて、ちゅ、とくちづけた。
──きゃぁ!?
手の甲に柔らかなものがふれ、驚いて声を上げそうになる。
「そ……そんな事をしたら、あなたの唇が穢れてしまいます!」
「これで穢れるなど、馬鹿げた事を言うのなら」
手の甲を離れた形の良い唇が、今度はマリアの耳元で囁く。熱っぽい吐息が耳朶にかかり、背中がぞくりと粟立った。
「ここにもキスをしようか?」
「えっ、ええ……っっ!?」
「ほら、すぐに赤くなる。マリアは愛らしいな! 冗談だよ」
「冗、談……?」
心臓がばくばくになっているマリアを、ジルベルトはさも楽しそうに眺めている。人を驚かせておいて笑うなんて。
──もう完全に、揶揄われているとしか思えません!
「あのっ。ずっと気になっていたのですが。あなたに聞きたい事があるのです」
マリアの戸惑いを楽しんだジルベルトは上機嫌で、マリアの手を握ってソファの座面の上に捕まえたまま、悠長にワイングラスを傾けている。
「聞きたいこと、とは?」
「あなたの、皇城でのお役職についてです。側にお仕えする身として、聞いておきたいのです。ラムダさんもフェリクス公爵様も、直接あなたにお尋ねするようにとおっしゃるので」
不意打ちを食らったジルベルトのグラスを持つ手が止まる。まさか今それを聞かれるとは思っていなかったのだ。
──マリアが俺の役職を知りたいと思うのはもっともだ。
本当の事を明かす時が、いつやって来てもおかしくなかった。
小鳥たちの囀りも、蟲の声さえも聞こえない。
静寂の宮は、蒼い宵闇の中にすっぽりと包まれている。
ジルベルトの背中にじとりと厭な汗が滲む。だが覚悟はしていた。
半ば諦めたように小さな吐息をつき、グラスを卓上にことり、と置く。
「もしも俺が、マリアが怖がる皇太子本人だと言ったら……?」
開け放たれた窓辺から舞い込んだ夜風が、薄いレースのカーテンを音もなく揺らす。
──ジルベルトが、皇太子……?
アメジストの瞳が、大きく見開かれた。