──いいえ、違う。
ジルベルトは皇太子では、ない。
皇位継承権を持つアスガルド帝国の皇子は三人。
二人の皇子の名までは知らないけれど、皇太子の名は……
確か、セルヴィウス。
生前の母から、強大なアスガルド帝国がシャルロワにもたらす脅威について聞かされたことがある。
豊かに稔る農地が国土の七割を占め、穀物の輸出で隆盛を極めるシャルロワ王国に、皇帝の名代である皇太子セルヴィウスからの伝令が届けられた。
シャルロワの国政維持を約束する代わり、帝国の属国となることを促すものだ。
病床の母は言った。
シャルロワはいづれ帝国に呑まれる。
王国の民の安寧よりも国益と私欲を優先し、帝国との属国関係を望まぬ王の治世は長く続かず、帝国軍との侵略戦争となるだろうと──。
帝国軍との戦いに挑んだ或る国出身の学者の書物を読んだ。
彼が書き記したのは、他を圧倒する帝国軍の戦術と戦況、そして敗戦国の無残な末路だった。
武器を捨てて平伏する老人も、逃げまどう子供さえも容赦なく殺し、女は犯されたあと殺された。かろうじて生き残った民は軍兵の略奪によってその日を生きる糧さえも失い、飢えと貧困の中で息絶えていったと。
そして三年前。
帝国皇太子の親征により、シャルロワ王政は滅び去った。
シャルロワ国民がどうなったのかさえ知る事もなく。ただ生き抜くのに必死だった三年という年月が流れた。
生き残りの王女リュシエンヌを追うのは、そんな非情な軍隊を率いる皇太子セルヴィウス……そのはずだ。
一方でジルベルトは、こんなにも早く皇太子だと打ち明ける時が来るとは思いもせず。マリアの返答を待つ碧い瞳が心許なく揺れる。
──『お茶役』など早急に辞退して、俺のそばから離れて行ってしまうのだろうか。
そんなジルベルトの心配をよそに、マリアは口元に手をあて、静かに
「あなたが……ジルベルトが、帝国の皇太子様? そんなはずがありません。
数多の国々を統べる大帝国の皇太子殿下が、政務を放ってあんな辺鄙なところまで、私のような下女を迎えに来てくださるはずがありません。
あなたはそうやって、また私を揶揄っているのでしょう? 私の反応を見て、楽しんでいらっしゃるのでしょう……?」
畳みかけるように言う。言葉を放ちながら、まるでそうであって欲しいと願うように。
ジルベルトはといえば、言葉を失ってしまう。憂いを帯びた眼前の少女の微笑みは、なんと美しく、愛らしいのだろう。
──ああ、その通りだ。
政務も議会も謁見も全て放り出して、俺は君に会いに行った。
馬鹿げていると思うかも知れぬが、心から、そうしたいと思った。
初めてなんだ。
政務よりも他の何かを優先したいと思うのは。
これほどまでに誰かを「そばに置きたい」「欲しい」と思うのは。
今、皇太子は自分なのだと自白すればどうなるだろうか。
短い時間のあいだに思案を重ねる。
だが同じことを何度も繰り返し悩んでは、浮かんでくる答えはいつだって同じだ。
──俺に怯えて、もう愛らしい笑顔を向けることはなくなるだろう。
皇太子が怖いと、目の端にも映りたくないとまで言っていたのだから。
「ジルベルト。あなたは皇族なのですよね?
漆黒の礼服と鷲のブローチは皇族の証だと聞きました。帝国の皇子は三人……もしやあなたは、そのうちのお一人なのではありませんか?」
「俺は──・・・」
ジルベルトの手に包まれたままのマリアの拳に、ぎゅ、と力がこもる。
ぐ、と握り返すジルベルトは、気が気でない。
この緊張が手のひらを通じて伝わってしまうのではないかと。
「俺は第三皇子、ジルベルト・クローヴィスだ。だが、今は……」
脳裏に、ふと違和感が持ち上がる。
『三人の皇子の中の一人』マリアはそう言った。
兄殺しの冷酷皇太子の噂を怖がっているのだとすれば、そのような言い方をするだろうか。
二人の兄を処刑したジルベルトは、当然皇太子の座に就いている。
──マリアは兄殺しの事実を知らぬのか?
ならば何故、皇太子を怖がる……。
「第三皇子……そう、ですよね。あなたの立ち居振る舞いや、あなたに対する皆さんの態度が普通ではないと感じておりました」
「マリア、教えておくれ。君は何故それほどに皇太子を怖がるのだ?」
「それは、その……っ」
ジルベルトに代わり、今度はマリアが焦りを見せる。
ここで下手な事を言って、素性を悟られるわけにはいかない。
「皇太子様の恐ろしいお噂を、耳にした事がありましたので。
畏れながらアスガルドの皇太子様は、女、子供であっても容赦なく殺す冷酷さがある。粗相などしようものなら即座に斬られると。私はこの通り粗忽者ですから……皇太子様の面前でどんな失敗をしでかすかと思うと、恐ろしくて」
「では、二人の皇子のことは?」
敢えて尋ねたのは、ジルベルトの心によぎる違和感の答えを確かなものにするためだ。
「それは……よく存じ上げません」
「君が知るのは、それだけか?」
「はい。他にも、何か……?」
すっくと見上げるマリアの瞳に嘘や偽りは感じられない。
──やはりマリアは知らぬのだ。
二人の兄を殺し、皇太子となった第三皇子の事を。
マリアとて心穏やかではない。
ジルベルトが皇太子本人ではないにせよ、帝国が王女リュシエンヌを探していることに変わりはない。すぐ隣の本宮には皇太子セルヴィウスだっているのだ。
正体を皇子であるジルベルトに知られたらどうなるのか。
ジルベルトは、恩情と生きる場所を与えてくれる。
優しい笑顔を向けてくれる。
だがジルベルトとて、私情と帝国の事情を混同することはないだろう。
皇太子の面前に突き出されるのだろうか。
冷徹な皇太子が剣の刃を振り下ろす。拝殿の
「俺が皇子だと知っても、そばにいてくれるか……?」
──私が王女リュシエンヌだと知っても、おそばに置いてくださいますか……?
叶うはずもない願いを、宵闇の空にそっと
「……不眠症、なのでしょう? 眠れないのはとても辛いことです。私は……ひどい環境からあなたに救い出していただいた身です。あなたの、仰せのままにいたします……第三皇子殿下」
──この帝国から逃げても、生き地獄を味わうのならば。
せめてこの命がある限り、あなたのおそばにいたいです。
潤んだ瞳がジルベルトを映す。
化粧気のない素顔に派手さはない。だが野辺に咲く可憐な花のように清らかな微笑みは、ジルベルトの不安を晴らすように拭い去る。
「その呼び方はやめておくれ。これまでと同じように、マリアには名前で呼んで欲しいのだ」
「はい……。あなたがそう望むのならば、仰せのままに……ジルベルトっ」
ソファの座面の上に捕らえた華奢な手を、ジルベルトはふたたび強く握り返す。いずれわかることだと知っていても、これ以上の事実はどうしても打ち明けることが出来なかった。
──まだ二日ではないか。失うには早すぎる。
「こうしてふれていると、気持ちが安らぐ……」
シャツのボタン二つ分を開けた襟元。露わになった鎖骨がすぐ目の前にあって。均整のとれたそれは緩やかな曲線をえがき、まるで彫像のように美しい。
掴まれたままの腕が引かれ、その鎖骨が顔の前にぐいと寄れば、ほのかに甘い
── ぇ?
突然にぐらりと視界が揺らぐ。
ジルベルトの鎖骨にくっついた頬と耳元に、どくどくと力強い鼓動と体温が伝わる。
顔を上げれば、優しく見つめる蒼い瞳と秀麗な面輪がすぐそばにあって、目のやり場に困ってしまう。
「ジルベルト……?! 何を……っ」
ソファから抱え上げられ、薄い絹の夜着を一枚纏っただけの身体を横抱きにされていた。