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静寂の宮 * refrain(2)


「椅子の上では休まらぬだろう、マリアも寝台で眠るといい」


 造作もない事のようにさらりと言う。

 ジルベルトが眠るのを見届けるまでに、緊張で心臓が壊れてしまいそう……『憧れの人』と一緒に眠るなんて!


 開け放たれた双扉で仕切られ、広い居間とひと続きになった寝室に向かうジルベルトの腕の中。どくどくと暴れる鼓動、緊張と恥ずかしさできゅんと痛む心を奮い立たせる。


 ──弱気になっている場合じゃない。ジルベルトと眠るのが、私の『仕事』なんだもの。しっかりと努めなきゃ……!


「何も持って来なかったのだな」

 横抱きにされた頭の上から、艶めいた声が降ってくる。


「マリアの一番大切なものだよ。てっきり仔猫を連れて来ると思っていた」

「ぁ……はい、申し訳ありません。そのつもりでいたのですが、ジルはまだ小さいので、あなたのお部屋で悪戯いたずらをしてはいけないと、心配になったものですから……」


「ジルの次に大事にしているものでも良かったが?」

「ええ、その……。それが思い当たらなくて。そもそも、大切だと思えるようなものを、何も持っていないのです」


 逞しい腕の中で揺られながら、胸の前に組んだ両手にぎゅうっと力を込める。


「強いて言うのなら……この『髪』です。母の面影を残すもので、私にとってはこの髪が母の唯一の形見ですから。とっても、大切なものです」


 ジルベルトは立ち止まり、驚いたように目を見張る。が、すぐに表情を柔らかにしてマリアを見遣った。


「マリアの母君だ。さぞ美しい人だろう」


 今度はマリアが目を見張る。

 そう……母親はとても美しく、優しい人だった。その輝くような美貌を買われて、王の妾となったのだ。

 王が二人目の正妻を迎え王子が生まれると、まだ赤子だった娘とともに王宮の離れ塔に追い遣られた。マリアが成長し母の持病が悪化しても、ろくな治療を受けさせてもらえぬままその短い生涯を終えた。


「はい……。母は私が大切にしていた、ただ一人の家族で、ただ一人の母でした」

「父君は? 兄弟はいないのか?」

「父は死にました。兄弟は……いません」


 ──そうだ。私には初めから、信頼しあった家族という意味での父親も、姉や弟もいなかった。いたのは時々暇つぶしにやってきて、母と私を蔑み嘲る小さな悪魔たちだけ。


 離塔に隔離されてからも、ちゃんとした治療を受けてさえいれば。母親の病があんなふうに悪くなる事は無かった。マリアが幾ら縋ろうとしても、離塔に閉じ込めた母娘たちの訴えなど国王が聞くはずも無く。

 日増しに痩せ衰えていく母の面影を脳裏にえがけば。今でも悔しさで涙が滲みそうになるのを、どうにかぐっとこらえる。


「たった一人きりの母君も、亡くなったのだな」


 まるで労わるように、ジルベルトの両腕に力が込められる。

 厚い胸板から伝わる体温はとてもあたたかい。ここで涙なんかを流して、優しいジルベルトを心配させるわけにはいかないのだ。


 見上げれば、歩き出したジルベルトの長い睫毛と寝室に向く碧い瞳が凛々しくて。

 これからジルベルトと同じ寝台で眠るのだと思えば緊張はおさまらない。けれども、これが自分の『仕事』なのだと心に強く言い聞かせれば、こんなに楽な仕事を与えられている事に感謝の気持ちさえ湧いてくる。


 ──いつまで続けさせてもらえるかわからないお仕事なのだから。

 せめておそばにいられる今は、ジルベルトにゆっくりと眠って欲しい……。


 マリアは手持ち無沙汰の指先で、ジルベルトのシャツを遠慮がちに掴んだ。



 ジルベルトは寝台に歩み寄ると、マリアをそっと下ろす。ふかふかの寝具が身体を受け止めた。

 マリアが体勢を整えるよりも早く、ジルベルトの膝を乗せたマットが深く沈む。


「……っ!」


 片手で肩を押され、仰向けに倒されるマリアの上にのしかかったジルベルトの胸板を必死で押し返した。


「あの、添い寝をするだけで良いのですよね?!」

「ああ。添い寝をするだけだ」


 マリアの後頭部を手のひらで支えながら、頭の下に枕をあてがってくれる。そのまま寝台に横たえられたマリアの身体は、隣に横たわったジルベルトに密着するほどに近い。

 石鹸の香りではない、ジルベルトが普段から纏う麝香の甘美な香りがマリアの鼻先に揺蕩たゆたった。


「それなら、どうして……?」

「添い寝には違いないだろう?」

「でも近すぎます」

「何か問題が?」

「もっ、問題と言うか……私の心臓が持ちません」

「心臓? ……はっ。それは慣れてもらわねば困るな」

「慣れるまでは、もう少し離れてください……!」

「離れてしまっては余計慣れぬだろう?」


「ならば」と、力強い左腕がマリアの華奢な腰をぐ、と抱き寄せる。

 あっと声をあげる間も与えられないまま、マリアの額はジルベルトの肩の窪みにおさまっていた。


「そのうちに慣れるだろう。こうしてふれていれば、俺も安心して眠れる……」


 ──恐れている。君が皇太子を嫌悪すると知ったあの時から。

 君は夢の中で会った天使に良く似ている。傷を癒し、俺を救う天使だ。

 ようやく探しあてた《天使》を、失うのが怖いのだ。


 ジルベルトは目を閉じ、ストロベリーブロンドの柔らかな髪にくちづけて、形の良い鼻を埋めた。

 頭のてっぺんにとはいえ、マリアにもその感覚は伝わる。


「ジルベルト……っ?!」

「身勝手な男の我儘に付き合わせてしまって、すまない」


 甘い麝香が薫るジルベルトの素肌。

 マリアの薄い夜着越しに互いの熱が伝わる。どうにか腕の外に逃れようと思うが、叶わぬらしい。それに逞しい片腕は、腕枕でマリアの頭部を抱えているのだ。


 ──どう考えても抱きしめられているのですが……!

 私が無知なだけで、これも『添い寝』と呼ぶのでしょうか?


 マリアの髪に鼻先を埋めたまま、ジルベルトは穏やかに目を閉じる。微かに薫る薔薇の香に恍惚となり、思わずふ、と熱い息を吐いた。


 ──いつもの妄想が襲ってこない。やはり安心する。


 それだけではない、マリアを抱き寄せた時。

 妄想の代わりにジルベルトを襲ったのは、身体中が痺れるような感覚。経験したことのない、背中を撫で上げられるような甘い痺れが今も続いている。


 ──これは一体、何なのだ?


「ぁのう……。眠れそうでしょうか……?」

「ン……眠れそうだよ。マリアのおかげだ」


 穏やかで甘く、とろけそうに優しい声が頭の上から落ちてくる。


 ──胸のどきどきがジルベルトに伝わってしまわないかしら。

 私の心音がうるさくて、眠れないのではないかしら。


 せめて自分の顔が見えなくて良かったと、マリアは思う。

 どうにか落ち着こうと頑張ってはいるけれど、身体はとても正直で。頭の先から足の先まで、特にマリアの顔は、林檎みたいに真っ赤になっていそうだから──。



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