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皇太子と後宮の花たち



 *┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*




 皇宮の広大な敷地内には『後宮』と呼ばれる宮殿が存在する。

 かつては皇族らの正妃・側妃たちが生活の場として過ごしていた。


 不治の病床に伏す現皇帝には、他国に嫁いだ姉はいるが兄弟はおらず、処刑された皇太子セルヴィウスと第二皇子の母親である皇后は属国の古城に幽閉されている。皇帝の愛側室であった現皇太子ジルベルトの母親も既に崩御している。


 ここ数年の後宮は、皇帝の従兄弟である大公の妻アルフォンス夫人と、ジルベルトの母方の叔父である宰相の妻ラナンキュラ侯爵夫人らが牛耳り、『行儀見習い』として属国の淑女らを集め、将来王族に嫁ぐであろう小国の姫君や上級貴族令嬢たちの礼儀作法教育を生きがいにして過ごす場となった。


「──フィフィー様。あなたがいつまで後宮にいらっしゃるか分かりませんが。エミリオ様はここに来てまだ半年、わたくしは一年半になる最年長者ってところね」


 白々とした陽光が燦々と差し込む後宮内の回廊を歩きながら、リズロッテ・ジェラルディ・フォーンは鷹揚に胸を張る。


 十六歳のデビュタントを済ませた行儀見習いたちの婚約が決まるまで、もしくは十八歳の成人を迎えるまでの最長二年間、後宮で寝食を共にするそれは、言わば『淑女たちの寄宿学校』のようなものだ。


「わたくしとエミリオ様の他にも、行儀見習いの淑女はざっと十名ほどおられます。お名前は折々覚えていかれるとよろしいでしょう。さ、こちらですわ」


 天井まで伸びた両開きの扉の脇に立つふたりの侍従が一礼をしてノブを引く。重々しい扉はぎりり、と音を立てて開いた。


 途端、騒めいていた室内が水を打ったように静まる。

 若い女性らが大きな円卓に座っており、窓際に近い奥の席で凛とした気品と威厳を見せる白髪の女性を囲んでいる。女性の隣の席は空いたままだ。


「先ほど後宮入りされた方をお連れいたしました。フィフィー様、アルフォンス大公夫人と淑女の皆様にご挨拶を」


 まずはリズロッテがうるわしく淑女の礼を披露する。それを眺める白髪の女性──大公夫人が満足げにうなづいた。



 *



 サロンに集まった十三名の令嬢の自己紹介が終われば、和気藹々とした円卓は若い淑女同士の華々しい会話が始まる。当然、新入りにはこれでもかという質問責めだ。


「……はい。婚約が決まって、お相手に粗相がないようにと、両親が」

「まぁ、ではフィフィー様はデビュタントを済ませたところですのに、すでにご婚約を?!」

「本当ですわ。なんて羨ましい……」

「結婚が決まった方が後宮に来られるなんて、珍しいですわね?」

「成婚式はわたくしが成人してからですし、まだあと二年ありますから」


 婚約が決まって羨ましい。

 その気持ちは本心だ。それよりもフィフィーの婚約という言葉の裏側で、テーブルを囲む令嬢のほとんどが胸を撫で下ろしただろう。


 ──


「フィフィー様! さぁさ、紅茶を召し上がって! こちらはとても美味しいのですよっ、林檎の香りがするのです」

「こちらのお菓子も、どうぞ召し上がって!」


 華やかに着飾った令嬢たちが、テーブルに加わった『新しい学友』に嬉々と笑顔を振りまくのを……コツコツ!


 テーブルを叩く小さな音が淑女たちの注目を集めた。

 大公夫人の扇子の要がテーブルの天板に触れている。


「あなたたち、静粛に。はしたないですよ。リズロッテ王女、フィフィー侯爵令嬢に後宮での生活や決まり事を教えて差し上げなさい。後宮での生活の指導は、年長であるあなたに全て任せます」


「承知いたしました。アルフォンス大公夫人」


 新入りの指導を任されるのは、夫人の確かな信頼を得ている事の証明でもある。周囲の羨望の眼差しのなか、リズロッテは得意気にふん、と鼻を膨らませた。


「フィフィー侯爵令嬢。何か質問があれば今のうちに。間も無くこのサロンに、皇太子殿下がお見えになられます」


 大公夫人の不意打ちに、令嬢たちが弾かれたようにはっと目を見開いた。誰もが「信じられない」といった表情かおをして、両隣に座る者たち同士で顔を見合わせている。


「……大公夫人、そのっ、ジルベルト殿下がお見えになるというのは……っ」


 リズロッテが代表して言葉を放つ。

 令嬢たちがみんな揃って豆鉄砲を食らったような顔をしているので、大公夫人が扇子で口元を隠し、目尻に皺を寄せてふっふ、と笑った。


「ええ、冗談ではありませんよ。本当ですとも。わたくしが呼んだのですから!」


 令嬢たちの顔がぱっと華やぎ、部屋中みるみる黄色い熱気で満たされていく。


 もっと素敵なドレスを着てくれば良かった!

 髪型は?! これではちょっと地味じゃないかしら?!

 今日はお化粧が薄かったかも!!


「大公夫人っ、有難うございます!」

「あなたがたも知っての通り、ジルベルト殿下はご多忙でいらっしゃいます。ご滞在は半時間ほどしかありません」


「ええっっ」


 途端、空気が落胆の色に変わる。

 黄色く舞い上がったり暗く沈んだり。若い女性たちの気合いは浮き沈みが激しいようだ。


「短い時間ですが殿下には御心を休めていただけるよう、あなたがたも精一杯の笑顔のおもてなしを。わかっていますね?」


 『行儀見習い』とは表向きであって、皇城の後宮入りを切望する令嬢と彼女らの親たちのほとんどは──皇族の男性に、あわよくば皇太子の目にとまるかも知れない──そんな大きな期待を胸の内に潜ませる。


 アルフォンス大公夫人は。

 皇太子が来ると聞いて、居住まいを正そうと背筋を伸ばす令嬢たちを愛情深い目で見遣った。

 彼女たちに礼儀作法を教えているという教師のような立場もある。だがそれ以上に子宝に恵まれなかった夫人にとって、ここにいる者たちが自分の娘のように思えるのだ。


 ──ご自身が選んだ『お茶役』を迎えられてからというもの、ジルベルト殿下は後宮にますます顔を出されなくなりました。

 そろそろ殿下にも、ご結婚について真剣に考えて頂かなくては。


 目の前で面輪を輝かせるたちの中から、次期皇妃となる者が出るかもしれない……。そんな期待を抱けば、ここにいる令嬢ひとりひとりがとても愛おしく思えてならない。それはまるで、自分の娘が皇妃となるようなものだから。


 ──特に、リズロッテ。

 彼女にはもう時間がない。

 リズは切実な《国の事情》を抱えて後宮にいるのですから。つい同情心が湧いてしまう。

 ジルベルト殿下がリズに興味を示してくださればと──。


 他の令嬢たちが笑顔を輝かせるなかで、リズロッテはひとりうつむき……形の良い唇をぐ、と噛みしめていた。



 皇太子の訪問を今か今かと待ち侘びていた令嬢たちが興奮を鞘に戻し、ティーカップとソーサーが触れ合う小さな音とともに、静かなお喋りが始まった頃。


 円卓の和やかな空気を破るように、双扉を開け終えた侍従がうやうやしく告げる。

「ジルベルト皇太子殿下が来訪されました」


 皇太子ジルベルトが礼服の肩から垂れるローブを颯爽とひるがえし、サロンの双扉をくぐる。

 令嬢たちは即座に椅子から立ち上がると、申し合わせたように皆が揃ってお辞儀をした。


「堅苦しい拝礼はいらぬ。顔を上げよ」


 良く通る艶やかな声がサロンに響いた。

 睥睨する碧い瞳。堂々とした足取りはその一歩一歩が威圧と威厳に満ちていて、ふわふわと華やいでいたサロンの空気を一変させるものだ。


 そのまま大公夫人のそばまで歩むと、皇太子を見上げる夫人の手を取り、背を曲げて軽くくちづける。


「ジルベルト皇太子殿下にご挨拶申し上げます」

「ご無沙汰しています。アルフォンス大公夫人」


 重厚な漆黒の礼服の所為なのか、皇太子が纏う空気にさえ重量を感じる。

 見上げるほどに背高い体躯にも圧倒されてしまう皇太子の存在感……顔を上げた令嬢たちが、こっそりと甘い吐息を漏らした。


「本当にご無沙汰が過ぎますこと。ここにいる令嬢たちがあなたの来訪を首を長くして待ち侘びておりましたよ?」


 皇太子ジルベルトの耳元に、後宮ここにいるはずのないフェルナンドの声が聞こえる──


『下女を食事の席に招待するなど。後宮であなたからの誘いを待ち詫びる姫たちが聞けば卒倒するでしょうね!』


「それは、申し訳ありません」


 睫毛を伏せ、大公夫人に向けて軽く額を下げる、が。

 その瞳に感情はなく、淡々と挨拶の義務を果たすようにしか見えない。


 令嬢たちは、こくりと息を呑む。


 長い睫毛を持ち上げた皇太子の面輪は見惚れるほどに美しい。

 けれど冷徹なアイスブルーの眼差しには一縷の柔らかさもなく、令嬢たちをただ傲岸不遜に見据えただけだった。


「殿下、わたくしの隣におかけくださいませ」


 大公夫人が促せば、夫人を一瞥した皇太子がうなづき、侍従が引いた椅子に腰を下ろす。

 皇太子の一挙一動も見逃さぬようにと目を凝らす令嬢たち。


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