――猫だ。
仕事終えて、いや終わらなかった仕事を抱えて家路につく。時刻ははもうテッペンを回ろうとしている、深夜。住宅街の間の狭い道では、街灯の頼りない明かりが申し訳なさげに光を灯していた。
その狭い道のど真ん中に、爛々と光る黄色いまんまるの眼だけが浮かび上がっている。
黒猫だ。
黒猫が、道の真ん中から動かない。車のライトが近づいてくる。黒猫は動かない。動こうとしない。
『危ない!』と叫ぶ間もなく、体が勝手に動いた。
猫が月音を見上げる。
その視線に、何か運命的なものを感じた。
「大丈夫! 私が助けるから――」
そう言うと、月音は黒猫を放り投げた。
目の端で、黒猫がやけに美しいフォームで地面に着地したのが見えたところで、月音の記憶は途切れた。
***
目を覚ますと、そこはどこかの草むらだった。
抜けるような青空が目に痛い。気持ちのいいひんやりとした地面に大の字になって気を失っていたようだ。
「......私、生きてる?」
体を起こし、そう独り言を言う。
そう思った瞬間、頭に触れた感触に違和感を覚える。柔らかい毛がぴんと立っている。
「え、なにこれ?」
恐る恐る自分の頭を撫でてみると、なにかもふもふのものがある。自分の頭から生えている。
「えっ!? なにこれ!?」
そして、ふと周囲を見回すと、見知らぬ景色が広がっている。空は澄んでいるけれど、不思議なほど静かで、まるで音が吸い込まれてしまったようだった。
「ここはどこ!?」
ちょうど近くに川が流れていることに気付くと、慌てて走り寄り水面をのぞき込む。
そこにいたのは、自分のはずなのに、自分ではない少女だった。黒い長い髪に、真っ黒な猫耳を生やし、不思議な衣装に身を包んだ――少女。
たしかに28歳相応のいたって普通の社会人女性の要望をしていたはずだが、水面に映っているのは、高校生――いや中学生くらいの少女に見えた。
手を頭に伸ばしもふもふの耳を触ると、水面の中の少女も同じく頭の猫耳を触る。
――これが、今の私なのか。
月音はへなへなと倒れこんだ。
「異世界転生じゃん……。嘘じゃん……夢かな……ははっ、仕事のしすぎて変な夢を見ているんだ」
心の中の不安が膨らんでいった。
草むらの葉音、川のせせらぎ、動物たちの鳴き声さえ、まるで吸い込まれたように静寂が広がっている。
自分で言った言葉が胸に突き刺さる。
――ここは、自分の知っている世界ではない?
呆然としていると、ふと背後に何かの気配が現れる。
振り返るとそこにはいかにもファンタジー世界にいます、という見た目の青年が立っていた。
「騒がしいなぁ。もっと静かに目覚めてくれるかと思ったのに」
緑色の髪、白いファンタジー世界の神職か何かの人が着ていそうな装束に細身の体を包んでいる。背は高く、180㎝近くあるかもしれない。
青年は眼を糸のように細めて、胡散臭い笑顔を浮かべていた。
「ようこそ、天野月音。君はこの異世界
青年は、まるで朝の挨拶をするかのようにさらりと言った。
この異世界アニモラ。
まったくありふれた、どこにでもある異世界転生。
月音は頭の中でそんなことを考えていた。
「えっと、あの、すみません。いったいぜんたい、これはどういう異世界転生なんでしょうか……」
混乱しながら月音が尋ねると、胡散臭い糸目男は楽しそうに声をあげて笑った。
「ははは、話が早くていいね」
当然だ。「結論から言え」というのは、会社でことあるごとに叩き込まれてきた。質問は端的に。答えも端的に。労働という鬱くしい原罪を背負った社会人としての聖典だ。
「君には役割がある。そうだね、早速その話をしよう。ほら、あそこを見てごらん」
その笑みがどこか計算されているように感じてしまう。しかし、今は目の前にいるこの男以外、自分がどうなっているか、どうなるかを知る手掛かりはない。
緑髪きな臭糸目男が指さした方に視線を向けると――
「もふもふだ……」
大型犬、猫、うさぎ、ウォンバット、モルモット、羊、ヤギ、ヒョウ、色鮮やかなオウムたち――
森の入り口に、これでもかというほどさまざまな種類の動物たちがたむろしていた。
あまりに現実離れした、可愛らしさ。
そのもふもふした光景に、月音の意識はさらに遠のいていった。