皇帝からの勅命を受けた身である以上、皇帝の意思に反すればすなわち、それ叛意ありとみなされる。言い訳も赦されることなく、物理的に首が飛ぶのは容易に想像できること。
だからこそ、分をわきまえている慧芽がヴェラを引き止めるのは当然のことだった。ただ悲しいことに、ヴェラの主張は、彼女がまだ人の世の常識に慣れていないという事実を慧芽に突きつけてきた。
宥めすかせるだけじゃいけない。理解をしてもらわないといけない。でもその道のりはまだずっと遠い。
それでも、慧芽はここで投げ出すような無責任をすることをしない。根気強く、ヴェラと延々の平行線を続ける覚悟でこの場にいる。
「姫様。姫様がきちんと人間らしい振る舞いができるようになりましたら、ちゃんと主上がお迎えに来てくださいます。ですから今はお勉強を」
「けーめー、いつもそればっか! お勉強、楽しくないからやだ!」
ヴェラの言葉は子供と一緒だ。
学びの楽しさを、大人になることの大変さを、知らない子供はとても多い。大人になってから「ちゃんと勉強していたなら」と後悔する人間はたくさんいる。学び舎を開いていた父のもとで、慧芽はそういう大人も、たくさん見てきた。
だからこそ。
「楽しくなくても、今、やるべきなのです。将来の姫様のためなのです。人間だって、勉強ができる環境はとても贅沢なのですよ」
「ヴェラ、人間じゃないもん! 竜だもん! いっしょにしないで!」
バチッ、と。
ヴェラのすぐそばで火花が散った。
それは一瞬のこと。幻覚かと思ったけれど、間違いなく爆ぜる音とともに、小さなひと筋の閃光が見えた。
部屋に沈黙が降りる。
慧芽は自分の目で見たものが何だったのか、思わず克宇に視線を向けた。
克宇は厳しい顔をし、鋭いまなざしをヴェラに向けている。一挙一足を注視するかのように、まばたきすらしないで呼吸を測っていた。
普段の、ちょっと情けなくて温厚そうな護衛武官の姿はなく、武人としての構えをする克宇に、慧芽も今の現象がただごとではないことを理解した。
緊張をはらみ、立ちすくむ。
けれど、何も話さないままでは埒が明かない。慧芽はゆっくりとヴェラへ語りかける。
「……姫様が竜であるのは私たちも承知しております。ですが、人の王たる皇帝陛下のおそばに侍るには、人ですら並大抵のことでは叶わないのです。竜であらせられる姫様が人間らしく振る舞うのは、姫様が主上のおそばに侍るために、必要なことなのです」
「知らない! 知らない! ヴェラ知らない! いっしょにいたいから、いっしょにいるの! ヴェラとダンナサマはいっしょにいる時間が短いのに、これ以上ヴェラからダンナサマをとらないでよぅ!」
瞬間、癇癪を起こして地団駄を踏み鳴らすヴェラの周囲に、幾閃もの紫電がほとばしる。
慧芽は思わず身を強ばらせた。
克宇はヴェラに対する警戒を強め、腰に佩く剣へと触れる。
本能的に悟った。
これは嵐だと。
これが竜なのかと。
目の前で小さく弾ける火花が、尋常であれば空高くにひらめく稲妻であることが分かってしまった。
ごくり、と。
喉を鳴らしたのは慧芽と克宇、どちらかは分からない。あるいはどちらもだったかもしれない。
ただ一つ、言えることは。
(これが竜。人の理をはずれる生き物。神の鉄槌とすら言われる雷すらも操るというの。少なくとも、姫様は雷を操っている。ならばかつての六花竜が吹雪をまとい、白灯竜が炎を吐くというのも、本当だったのかもしれない……!)
根本が、人間以下の生物とは違うということ。
そしてそれは、慧芽の学術的興味を非常にそそるということだった。
目を爛々と輝かせ、不敵に笑う慧芽。ヴェラをはさんで反対に位置取っていた克宇が頬をひきつらせているけれど、慧芽は気づかない。
今すぐにでも部屋を飛び出して何か書くものを手に取りたいと逸る気持ちが強い。でも今はそれどころではないと、慧芽は自分を律した。表情を取り繕うと、ヴェラへ再度、諭すように言葉をかけていく。
「共にある時間を短いと思うのであれば、なおさら学んでくださいませ。姫様が学ぶことを拒否すればするほど、主上にお会いする時間は遠ざかります」
「うるさい! ダンナサマは百年もいないんだよ!? 会いたい時に会って、なにが悪いのっ!」
ヴェラの慟哭を聞いた瞬間、慧芽は理解した。ヴェラが軒炎を乞い求める理由に、納得ができてしまった。
以前、竜の時間の流れが人と違ってどうなのだろうかという疑問を持ったことがある。
人の百年は長い。赤子から老輩になるまでの時間、慧芽が今を生きる瞬間を思えば、百年は長い。
けれどヴェラに「百年もいない」と言わしめるということは、竜にとっての百年は、人間の感覚より遥かに短く感じられるもののようで。
慧芽はこれをどうやって説き伏せるべきかを悩む。否、そもそも説き伏せたところで、相互理解の観点から言えば、それは正しくはない。
言いあぐねた慧芽が言葉を選んでいる間にも、ヴェラの癇癪は徐々にひどくなっていって。
「けーめー、どいてよぅ!」
「申し訳ございません。それはできかねます」
「イジワルけーめー!」
喚くヴェラを、慧芽は真正面から見据えた。
「意地悪で結構です。私は主上の命に従ってここにいるのです。その意味をもう一度お考えくださいませ」
「分かんないよっ! ダンナサマはヴェラに会いたくないの!? だからイジワルをするの!?」
「意地悪ではありませんが……ですが、今の姫様にはお会いになれない理由が――」
すべては言えなかった。
言うよりも早く、慧芽の言葉の一部だけで百をも理解したような顔をしたヴェラが、くしゃりと顔を歪めた。
そして。
「けーめーなんて、だいっっっきらい!!」
ビリビリと鼓膜を破りかねないほどの大咆哮。
これが竜の肺活量かと見当違いなことを考えた慧芽が耳を抑えると同時、視界が真白に染まる。
遅れて、身体を脳天から足の爪先まで一直線に切り裂くような衝撃が、胎内の芯である骨ごと揺らすようにほとばしる。悲鳴すらも上げること叶わないほどの激痛に、慧芽は指一本も動かせなくなった。
「――――!」
視界が白く染まる前、克宇が慧芽に向かって駆け出したように見えた。けれど、全身が痺れ、痛みすら遠く感じ始めた慧芽は、何が起きたのかよく分からないまま意識が遠ざかっていく。
ヴェラの紫の閃光を、真正面から当てられた慧芽の身体がぐらりと傾いだ。慧芽が床に倒れ伏す前に克宇が滑り込んで受け止める。
急速に閉じられていく意識に、慧芽は抗えなかった。
克宇の腕のなかでピクリとも動かなくなった慧芽に、克宇も、慧芽を攻撃したヴェラでさえも、青ざめた。