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第56話 〝芸〟の七才媛

 後宮での一日はあっという間。

 洗濯や掃除は下女にお願いできるから、必要最低限でいいとはいえ、ヴェラの特殊な食事を慧芽が手ずからやっている以上、時間はいつも足りない。


 離宮の時よりは楽になるはず……と思っていたのに、後宮には独特の時間割があって、炊事洗濯食事すべてにおいてその時間割りに合わせなければならない。そうなると結局、慧芽も時間に追われるような形になってしまった。離宮にいた時のように昼間にできなかったツケを夜にやる、みたいなことはしづらくなっている。


 今も昼餉の支度に追われていると、不意に克宇が厨へ顔を覗かせた。


「慧芽殿」

「如何しましたか」


 慧芽は捌いていた蛇から視線を外し、厨の入り口を見る。克宇がまな板の上にあるものに気がついて、顔を引き攣らせた。


「……慧芽殿、昼餉はもしかして、蛇、ですか」

「はい。少し早いですか、姫様も慣れない後宮生活が始まっていますので、お出ししたほうが良いかと思って」

「……」


 克宇は黙って視線を逸らしてしまった。相変わらずの蛇嫌いに慧芽は苦笑する。


「これは姫様用ですので。私たち用のはまた別でご用意いたしますよ」

「あの、そのことですが。もう一人分、追加していただけますか」

「どなたかいらっしゃるのですか」


 克宇がはいと頷いた。


「先日、女官の派遣を依頼したでしょう。その方が到着されました。少し手を止めて、挨拶に来ていただくことはできませんか」


 この竜宮を取り仕切る筆頭女官は慧芽だ。ヴェラの身の上についても注意しないといけないことだってたくさんある。そういうことなら、と慧芽は手を止めて前掛けも外した。手を洗い、克宇とともに厨を出る。


「お早い派遣ですね。もう少し時間がかかると思っていました」

「なんでも志願者がいたそうで。それに慧芽殿とも知り合いだと伺っておりますよ」

「知り合い、ですか」


 慧芽は嫌な予感がした。

 後宮にいる知り合いなんて、片手で足りるほどしかない。下女と、後宮入りの際に世話になった筆頭女官の白梅と。あとは梔貴妃の妹の。


「お待たせしました。春蕾しゅんらい殿」

「待ちくたびれましてよ。お義姉様」


 女官用の控室に入った瞬間、嫌な予感が当たったと慧芽は天を仰ぎたくなった。


 女官としてやって来たのは慧芽よりも小柄で華奢な女性。女性というよりも、少女と表現するのが相応しい。小さな顔に大きな目、ふっくらとした唇。愛らしく華やかな顔立ちをした春蕾に、慧芽は目を逸らしたい気持ちでいっぱいだ。


 思わず無言になってしまった慧芽に、克宇が不思議そうに小首を傾げて。


「おねえさま、ですか。ご姉妹だったんです?」

「あらやだ失敬。違いますわ。昔の名残りで、つい、ねぇ?」


 慧芽はため息をつきたくなった。

 絶対わざとだ。春蕾はそういう子。口達者で、正直慧芽も話していると疲れてしまうことも多い。まさか軒炎が春蕾をヴェラ付きの女官として派遣してくれるなんて予想だにしていなくて、慧芽も油断していた。


 だって、春蕾は。


「……お久しぶりです。いつぶりでしょうか。まさか、春蕾様が来てくださるとは思いませんでした」

「それはそうでしょうとも。なんたってわたくしは〝芸〟の七才媛。普通でしたら、正八品の妃なんかに勿体なさすぎましてよ」


 そう、春蕾は〝芸〟の七才媛。

 詩歌や舞、楽など、当代きっての芸子として認められた才媛だ。本人の言う通り、最底辺の妃に派遣されるには勿体なさすぎる人選。それどころか、梔家直系の姫である春蕾は家柄的にも、自身が後宮入りすれば正三品が約束されるほどの身分だ。単純に正八品の妃に仕えるだなんて、立場があべこべになってしまいかねないほど。でもそれも、普通の妃なら、だけれど。


「わざわざ自分から志願したと聞いていますが。勿体ないと思われるのなら、ご自分に相応しい場所へお戻りになられたら良いかと」


 高慢な態度の春蕾に慧芽がしれっと言い返す。

 春蕾の可愛らしい眉が不機嫌そうに跳ねた。


「あーら? そんなこと仰って。人手が足りないと泣きついたのはどなた? 礼儀作法を竜だか何だか知らないけれど、姫君一人に教えられずにいる無能がいると聞いたから、わざわざ来てあげましたのよ?」


 売られた喧嘩は買うのが春雷だ。

 慧芽と春蕾の間には歩み寄れない溝がある。慧芽が何かを言い返すよりも早く、春蕾は言いたい放題、まくし立てて。


「あらやだ失敬。まぁでも? 慧芽様は獣の調教が得意なだけであって、姫君に教えるのとは全然、違いますものね?」

「別に私は獣の調教師ではありません」

「謙遜しなくてもよろしくてよ。お兄様だって、家畜舎に住んでいた貴女と婚約が破棄できて大喜びでしたもの」


 あまりにもひどい、侮辱。

 慧芽は思わず春蕾に声を張り上げようとして。


「はい、そこまでです」


 ぱんっ! と大きな柏手ひとつ。

 それまで黙って聞いていた克宇が、慧芽と春蕾の応酬に割って入った。


「お二人に因縁があることは分かりました。ですが春蕾殿、慧芽殿を貶しに来ただけでしたら、今すぐお引き取りください。報告は俺のほうからしておくので」

「あら……脅しますの?」

「普通のことですよ。ただの日報の一環です」


 当たり前だと言わんばかりににこやかに言い切った克宇。春蕾は鼻白む様子で息をつくと、つんとそっぽを向いた。


「ま、お好きになさると良いわ。けれど竜の姫君の宮にくるような女官はわたくし以外、いなくてよ」


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