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第55話 後宮生活の幕開け

 床入りの儀から一夜明けた。

 昨夜、克宇に部屋まで送ってもらった慧芽は朝の支度を完璧にこなすと、閨番の合図で朝餉を寝室へと運んだ。


 朝寝坊のヴェラはまだまだ眠たそうで、寝台の上で上体を起こしているものの、うつらうつらと船を漕いでいる。軒炎はすっかり身支度を整えたようで、皇帝としての威厳のある姿で慧芽を出迎えた。


 慧芽は朝餉の支度を整えて、ヴェラへと声をかける。まだおねむのヴェラはもじょもじょと寝言を言っていたけれど、軒炎の「おはよう、ヴェラ」の言葉でぱちっと目を覚ました。


「ダンナサマ!」

「おはよう、ヴェラ。よく眠っていたな」

「うへへ、ダンナサマ〜」


 てれっと笑みくずれたヴェラに、慧芽はちょっとだけ口元を緩めつつも、ささっと濡れ布巾で彼女の顔をぬぐう。朝寝坊のだらしないお顔をふき取って、眠気をすっかり取り払ってやると、ヴェラはぴょこんっと寝台から飛び降りた。


「ダンナサマ、ダンナサマ! もう行っちゃうの?」

「ああ。朝議があるからな」


 皇帝の朝は忙しい。

 いくら新しい妃が後宮入りし、床入りの儀をした翌朝とはいえ、気を抜きはしない。これが寵姫との共寝だったらまた話は変わっただろうけれど……今の軒炎に寵姫ができたという話はまったく聞かない。そのせいか、軒炎に世継ぎができたという話もなく。


 軒炎はよくも悪くも、仕事人間。

 国にとっては良いことだけれど、一人の人間としてはちょっと息が詰まりそうな生き方をする御方だ。


「うー……。ダンナサマ、行っちゃうの? ヴェラ、さみしい……」

「昨日約束しただろう。がんばると。がんばって私に会いに来なさい。待っているよ」


 軒炎がヴェラのふわふわした紫の髪を撫でる。ヴェラは嬉しそうにくふくふと笑って、軒炎に抱きついた。


「ちゃんと待っててね! ヴェラ、がんばるから!」

「もちろんだとも」


 軒炎は朝餉もそこそこに、寝室を出る。ヴェラがにこにこと見送りする中、慧芽もヴェラの側で見送りの姿勢を取る。


 去り際、軒炎が慧芽に言い残した。


「克宇から話は聞いている。明日にでも女官を一人派遣しよう。しばし待て」


 一瞬、何のことかと思った慧芽は、その言葉の意味を理解すると慌てて頭を垂れた。いつの間に克宇は軒炎に話を通したのか。昨夜、退室して慧芽を部屋まで送ったあとは、彼も休んだと思っていたのに。


 軒炎を見送れば、閨番の二人もそそくさと去っていく。これにて、後宮入りの儀はすべて完了だ。


 慧芽は姿勢を糺した。ヴェラは戸口に張りついて、軒炎の背中をずっと視線で追いかけている。嬉しそうに好きな人の背中を見つめるヴェラは、恋する乙女のように可愛らしかった。


 とはいえ、いつまでもその調子でいられても困るので。


「さぁ、姫様。朝餉を召し上がってくださいませ。今日から少しずつ、またお勉強をしていきますからね」

「はーい!」


 元気よく返事をして、ヴェラはくるりと身体を反転させた。ぱたぱたと軽く駆けて、朝餉の並んだ卓につく。


 今日の朝餉は卵粥だ。ヴェラが好きだという駝鳥の卵を取り寄せることができたので、特別な朝に相応しいちょっと特別な卵粥になった。卓についたヴェラはにこにこと匙を握って、卵粥を頬ばる。


「はふっ、あふっ! けーめー、これおいしい!」

「熱いのでゆっくりお食べくださいね」

「ん!」


 ヴェラの食欲は朝から絶好調。あっという間に一杯目を空にしたので、慧芽はいそいそと卵粥のおかわりをよそった。この分だと、五杯くらいいきそうだ。駝鳥の卵が大きかったので、卵粥はまだたっぷりある。いっぱい食べてくれるのは元気の証だから、慧芽も安心だ。


 ヴェラがすっかりと卵粥を食べ尽くす頃、慧芽は食器を下げた。厨まで持っていけば、下女が回収して片付けてくれる。洗濯物もそうだ。離宮の時は全部慧芽がやっていたけれど、こうして後宮に来たことで人の手を借りられる部分が増えたのは素直に大助かりしている。


 それからようやく、ヴェラの着付けに入る。衣装部屋で二着衣装を見繕うと、昨夜のようにヴェラにどちらが良いのかと聞いて、色遣いや刺繍について細やかに語りつつ衣装を着付けた。そうすればもう、昼餉の支度をしないといけない時間で。


 ヴェラの食事は気難しい。人間にとっての毒物を扱う日もあるので、ヴェラの体調管理も兼ねて慧芽が一身に受けている。食事の準備は気を抜けないので、どうしても必要な時間だ。


「克宇様、克宇様」

「あ、はい」


 着付けたヴェラを衣装部屋から解放するのと同時、外で待機していた克宇に声をかける。


「昼餉の支度をします。庭園の案内を頼んでもよろしいでしょうか。その際、姫様が竜になっても良い区域があると聞いているので、そこの案内も忘れずに」

「いいですよ。お任せください」


 屈託なく笑う克宇に慧芽も少しだけ頬が緩んだ。

 人手はいつだって足りないけれど、離宮での生活で、どのように動けば効率が良いかは慧芽も学んでいる。この調子で後宮でも上手くやっていこうと、慧芽は今一度気合を入れ直した。


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