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第54話 焦りは禁物

 話はそれだけだと言われ、慧芽と克宇は寝室から退出した。退出した途端、慧芽は深く深く息を吐き出して、顔を覆う。


「秀女選抜ということは、まず間違いなく礼儀作法は必要だわ。それと詩歌と舞踊、雅楽、刺繍などの技能も必要なはず。字の手習いを古今歌集にして少しでも詩歌を覚えてもらって、舞踊は、刺繍は、とりあえず手本を……」

「慧芽殿」

「ようやく人間らしい所作が備わってきたばかりだもの。礼儀作法は焦っては駄目よ。姫様に合わせていくから、礼儀作法はぎりぎりまで加味したうえで……」

「慧芽殿」

「なんですか、克宇様」


 克宇に肩を叩かれて、慧芽は顔をあげた。ヴェラの寝室前には男女の閨番が一組と克宇しかいない。その克宇に腕を引かれてしまい、慧芽はたたらを踏んだ。


「慧芽殿、今日はいったん休みましょう。姫君の後宮入りで、ここ最近ずっと忙しかったんですから。今日くらいはゆっくり休みましょうよ」


 慧芽の手を握り、克宇がゆっくりと歩き出す。

 戸惑いつつも、慧芽は克宇に誘われるまま歩く。寝室から遠ざかる道のりを歩みながら、ちらちらと背後を気にする慧芽は、秀女選抜のことで頭がいっぱいだ。


「ゆっくりなんてしていられません。秋まで三月もないのです。教材も今ある分では足りません。姫様に何が必要か精査して、早いうちに申請をしなくては」

「慧芽殿、待ってください。落ち着いて」


 そんな暇はない、と答えようとした慧芽は寝室のほうが気になってしまい、つい足元が疎かになってしまった。克宇が歩みを止めたことに気づかずにそのまま進んでしまう。


「きゃっ」

「だから落ち着いくださいって」


 目の前にいた克宇にぶつかりそうになってびっくりした慧芽を、克宇が優しく抱きとめてくれる。武官装束の固い胸当てに額を軽くぶつけてしまった慧芽は、おずおずと克宇の顔を見上げた。


「あの、すみません……」

「いいえ。慧芽殿がそれなりに頑固なのも知ってますから」

「……それって悪口でしょうか」

「いいえ?」


 屈託なく笑う克宇に悪気は一切ない。慧芽は何とも言えない気持ちになって、抱きとめてくれた克宇からそうっと身体を離した。


「慧芽殿。さっき主上は仰っていましたよ。必要なものがあるなら、ある程度融通すると」

「知っています。ちゃんと聞いていました。なので早急に必要な手習い書の目星を」

「違います。そうじゃなくて」


 克宇が困ったように眉尻をへにょりと下げた。慧芽は克宇の言いたいことが分からなくて、眉間にちょっと皺が寄る。


 寝静まった夜の宮。月明かりが回廊に差し込んで、慧芽と克宇の表情を照らしてくれる。慧芽の表情がよく見えたらしい克宇が、彼女の眉間に寄っている皺をくすぐった。


「克宇様っ!?」

「ほら、怖い顔をしてると姫君にも伝わってしまいますよ」


 ね? と言われてしまえば、慧芽は眉間の皺を緩めるしかない。ついでに先ほどの克宇と同じように眉尻が下がってしまう。


「それは、そう、ですけれど……」

「何ごとも心に余裕がなければ、うまく行きませんよ。また一人で背負わないで、人を頼ってください。主上もそう仰ってたんですから」

「そうは言ってないと思いますが……」


 そんなことを言われた記憶のない慧芽がまたもや眉間に皺を寄せようとすると、再び克宇の指先が慧芽の眉間に近づいてくる。慧芽がぱちぱちとまばたきをして眉間の皺をほぐすと、月明かりに照らされた克宇がにこにこと笑っているのに気がつく。


「克宇様? どうして笑っているのです……?」

「いえ、出会ったばかりの頃の慧芽殿なら、とりつく島もなかったな、と思って」


 そんなことを言われてしまえば、慧芽もちょっとだけばつが悪くなる。離宮にいた頃は毎日がずっと手探りだった。今もまだ手探りのことが多いけれど、最初の頃よりはよっぽど肩の力の抜き方を覚えてきたと思う。


「克宇様のおかげです。私が一人で抱え込む必要はないと言ってくださったので……」

「そう、それですよ」


 克宇がぴんと人差し指を立てた。顔の前に立てられた指に、慧芽が目を丸くしていると克宇は屈託なく笑って。


「人を頼りましょう。主上が必要なものがあれば言うように仰っていました。今、慧芽殿に足りないのは人手です。離宮と同じくこの竜宮の運営も大事ですが、慧芽殿は本来、姫君の教育係なのですから。そちらを優先できるように人をまわしてもらいましょう」


 克宇の提案に、慧芽は目から鱗が落ちるかと思った。そんなの、すごく当たり前だけれど。でも。


「最低限の下女は借り受けています。これ以上は……」

「下女はいても、女官が圧倒的に足りません。慧芽殿は立場的には女官ですが、実際には姫君の侍女的役割をこなしていることが多い。もう一人くらい、女官の派遣を頼んでみても良いかと思いますよ」


 とはいえ、ヴェラは離宮に隔離される前に一瞬だけ後宮にいたらしく、当時のことを覚えている女官たちから敬遠されている。だから追加の女官の派遣が難しいと、離宮時代に何度も聞かされていたけれど。


「……そう、ですね。良い機会なので、頼んでみます」


 後宮に来て、お披露目をして。

 ヴェラを見る女官たちの目も少しは変わったかもしれない。


 そう思った慧芽は克宇の助言通り、女官の派遣を頼んでみることに决めた。

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