「いらっしゃいませ、ゼアリリューゼ様」
「ああ、今日もゆっくりさせてもらうよ」
本当はニマニマしたいところを微笑みに留めながら、吸血鬼は平民姿の店主を見て悦に入った。
これはあくまで衣装を着て貰うだけのサービスであって、イメージプレイにまで踏み込める訳ではないので、この接客に適しているとは言えない服を着る代価に予約の枠を全て埋めることになっても後悔はなかった。
元より彼女は、この姿を余人に見せるつもりはまったくと言って良いほどなかったからだ。
努めて普段通りであるように振る舞いながらも、平民服で給仕してくれるヨシュアを眺められてゼアリリューゼは幸福だった。
ちらちらと覗く鎖骨、吸血鬼にとって何より堪らない首筋が露出されていること、意外と男性っぽいのだなと再認識させる逞しい前腕と筋張った手の甲。
作業の度に普段と違う姿を見せてくれるのはうれしいのだが、本意は別にあった。何も彼に普段より露出度の高い格好をさせて柔肌を拝みたかった訳ではない。
気分は領地を巡察していた際、始めて無垢な少年を見初めた領主のソレである。
ああ、もしも彼が〝Haven of Rest〟を開く前、大竜骸の学院に入学するより更に前に見初められていれば、どうしていただろうか。この服装は、その夢想をより鮮明化するための小道具に過ぎない。
実際、今の彼はもう少年とは言えない年齢、青年と形容するのも割とギリギリになってしまっているのだが、それでも服を着せたうえ、脳内で勝手に小さく補正してしまえば妄想が捗る。
自領を成機大陸から仕入れた車で悠然と走る自分。農道の両脇に跪いて並ぶ農民の中で、一際美しい黒髪を見つけて、ふと車を停め顔を上げさせる。
そこにいる幼いヨシュア。愛らしいヒト種を見つけ出した幸運。こう考えるだけで、何故この幸福に出会えなかったのか、もし出会えていたら、相反する二つの思考がぶつかってゼアリリューゼの中に痛みと幸福が同時に涌いてくるのだ。
この思考を知ったならば、ヨシュアは「セルフ脳破壊と脳再生して気持ちよくなってる……」とドン引きしたことであろう。
「ゼアリリューゼ様、今回の格好はご満足いただけましたか?」
「君の知らない姿を見ることができた。私はとても満足だよ」
ああ、まだ誰にも見初められていない彼を最初に見つけたのが自分だったらなぁ。そんな夢想に耽りつつ、血の雫が垂らされた緋茶を呷る一時は、心地好いような無念でならないような、何とも言えない葛藤に満ちた時間であった。
興奮の混じる鬱々とした感情を抱えながら帰宅したゼアリリューゼは、次の予約を帰る前に決めていた。流石の彼女も二日続けて通えるほど暇ではなかったので、三日後の来訪に留めるしかなかったが、それでも待っている時間というのも悪くないものだ。
故に、その三日間、彼女は何があっても予約の時間を邪魔されてはなるものかと鬼気迫る働きを見せ、長らくの懸案事項であった外交問題を二つ片付け、来週末までに終わらせておけば良かった案件を一日で処理し、全てを美事に捌いて見せたという。
「コワ……」
尚、上司の尋常ならざる働きぶりと、退勤時の「邪魔をしたら殺す」という威迫を見た死霊族の感想は、その一言であったという。
全ての雑事を――公務をこう呼ぶのも大分問題があるように思えるが――片付けて、誰にも邪魔をされず〝Haven of Rest〟を訪ねたゼアリリューゼはご機嫌であった。
「今宵もようこそおいでくださいました」
ホールボーイの衣装を纏ったヨシュアは完璧に可愛かったし、何よりも恥じらいを隠し切れていないのがよかったのだ。
正に領主様に見初められ、始めて館に上がった従僕のような風情がある。たしかにこの服を着るには、彼は
熟練の手捌きで茶を煎れているのだけは、もうちょっと初々しさが欲しいものだが、それでもゼアリリューゼは満足だった。
領主に見初められて館に上がり、おっかなびっくりとこんな良い服を着てもいいのかと躊躇いつつ、慣れない仕事に邁進する。そんなあり得たかも知れない姿を夢想できるだけで幸せであった。
脳内の少年ヨシュアは精一杯仕事をして、手が届かないところに自分が担ぎ上げてやって、畏れ多いですなどと顔を真っ赤にしていたりしてとても愛らしい。
そして、目を開けば見慣れたヨシュアが給仕していると、一瞬で数年の成長を遂げたような、何とも言えぬ感慨が湧いてきて大変に趣深かった。長命種が持つ、時の流れがあまりに一瞬に感じてしまうことに由来する感傷が、変なところで活きていた。
ああ、着て貰ってよかったと思いつつ、また三日後の来店を予約してゼアリリューゼは至福の内に帰宅する。
次の予約はもっと楽しくなることが確約されていたからだ。
そして、同じように何があっても飛び込みの用事が入ってこないように仕事を熟して、途中皇帝陛下から怪しい案件が飛んできそうだったのを適当な身代わりに押しつけて華麗に回避し――実際、園遊会のスピーチを代わりに書いてくれかなという、もっと別のヤツに投げろと言いたくなる案件だった――〝Haven of Rest〟への来店を叶える。
「いら……ごほん。お帰りなさいませ、ゼアリリューゼ様」
「ああ」
そして、衣装の意味と意を汲んでくれたのだろう。出迎えの言葉まで変えて、家宰用のフォーマルスーツを身に纏ったヨシュアは正に完璧であった。
幼い頃に見出し、大事に養育し、遂にこの領域に至るまで出世した大事な大事な子のように思えてならない。
普段の気取らない従僕服も良いが、一昔前の貴族を意識させる服飾も実によかった。似合っているのもあるが、何とも言えないこなれ感が、長く仕えてくれた信頼の置ける従者のようで満足感が大きい。
今日は特別だからと自分に言い聞かせてVIPルームを予約しておいたので、ゼアリリューゼは卓につくと、そこで仕事を広げた。
といっても、余人に見られても特に問題がない自領を監督するための書類だ。部外秘の物は入っておらず、本物の家宰が領地から送ってきた、できれば来月までに目を通して欲しいと送ってきた物。
それを見たヨシュアは、我が威を得たりとばかりに筆記具の一式を用意し、茶を饗するのではなく背後に控えた。
ペン先が紙面を踊る静かな時間が過ぎていった。時折計算のために手を止める以外で筆記具が滑らかに踊る音が止むことはなく、余計な邪魔も入らない。後ろには静かながら、いつでも命令に応えられると頼もしい気配が佇んでいる仕事環境の何と心地好いことか。
普段の倍速近い勢いで領地の差配が続く中、流石に集中しすぎて目頭を揉んだ時、そっと緋茶が差し入れられた。
今まで保温術式で暖かく保ってあったのだろう。疲れた脳に脳に滋養が直ぐ届く、何とも気の利いた落雁の茶菓子を添えて出された茶にいたく満足を覚えた彼女は、思わず呟いていた。
香り高い香りからは、新鮮な血液が当然のように一滴垂らされているのも素晴らしい。
「完璧だ」
「恐悦至極に存じます」
深々と頭を下げる気配。
背後なので姿は見えていない。だが、これがいい。これこそがいいのだ。
ゼアリリューゼはそれから半刻ほど仕事を続けた後、全てを片付けたのかインクが乾くのを待って封筒に仕舞い込み鞄に戻す。そして、軽く伸びをするのと同時にお代わりの茶が来た。
緋茶ではない。空のティーカップの隣に透明な硝子製のポットが置かれており、その透き通る器には乾ききった花のつぼみが転がっている。
そして、湯が注がれると、水気を取り戻した花がゆっくりと開き、なんとも落ち着く香りを部屋一杯に満たしたではないか。
ゆらゆらと湯の中で揺れるのは茉莉花と、目に楽しい赤い楚々とした花びら。すっとした芳香が鼻腔を抜けると、それだけで体が弛緩するような優しい気持ちになる。
「これは面白いな」
「専門店から取り寄せたハーブティーです。ベースは茉莉花、そこに眼精疲労に効く目明かし草を配合しております。お疲れでしょうから、味だけでなく目でも楽しめることができ、精神が落ち着く物をご用意いたしました」
一口飲むと、すっきりした味わいが心地好く疲れた体と精神に染み渡るよう。決して味は濃くないのだが、繊細に煎れた茶葉から立ち上る香りが全てを補って美事な調和を保っている。
ハーブティーは中々難しい物で、抽出が雑だと味も匂いも物足りないし、かといって時間が長すぎると非常に諄い香りで辟易とさせられるのだが、これは正に完璧の一言。控えめな味と主役の芳香。相互に引き立て合って、日々の疲労でささくれだった心が癒えていくようだった。
「今日は……いや、充実した日々だった」
「ご満足頂けたなら幸いでございます……我が主」
心が蕩けるような幸福な一時を味わったゼアリリューゼは、常識の範囲内でチップをたんまりと弾んで店を後にした。これ以上、ここに残ってしまえば、本当に自分の物にしたくなってしまって我慢ならないだろうと弁えていたがため。
そして、帝都の別邸に戻り、執事や従僕に迎えられた時、何とも言えない喪失感と物足りなさに溜息を吐いてしまい、従者達に何か手落ちがあったのではないかとヒヤヒヤさせてしまったのは、また別の話…………。