未だ、森の闇が太陽の光に溶け残る時刻──。
泥濘みの土を足の爪で掻き出し、草木の狭間を両手で掻き分けながら進む──。
裸足で生きる少年は、両の手足が、泥や葉の露に濡れて、気持ちが良いと感じる。
──風が吹くと……ひんやりして涼しいな……。
そんな事を考えながら、定番の水筒を腰に吊り下げ、日課である薬草と山菜の採集をしていた。
黒く艷やかな毛並みに細くしなやかな筋肉美、静寂閑雅な佇まい。
吸い込まれそうな黄色い瞳は琥珀の様に美しく、二つ先鋭な耳を立てる。
垂れた長い尾、小さな頭、九頭身の完璧な均整で、目を奪う存在感を放つ。
尤も、少年には全く自覚が無いようだ。
しばらく森の中を散策していると突然、目前に現れた初体験な不測の事態に、少年は立ち尽くし、驚き、困惑、興奮、喜び、様々な感情を巡らせる。
──長くて綺麗だ……。何て言ったかな……雲? 空に浮かぶアレより白い。東の山頂に積もる……雪? アレ位まっ白だ……。
少年は何やら空を見上げ、物思いにふけっている様子。
──少し、泥で汚れてる……? でも、凄く透き通っていて……美しい……。
少し遠目から、今度はソレをのぞき込み、凝視している。
──母さんのも白かった。短かったけど、フワフワして気持ち良かった。温かかった。幸せだった。大好きだった……。
目を閉じて、ニヤけている。
──あれっ!? 何で頭だけ……? 身体に……生えてない!?
小さなあごに手を添え、左右に首を傾げる。
──褐色の肌だ……。とても……綺麗だ……。
少年は、美しいその未知の種族に見惚れ、一瞬──思考が停止する。
──動かない……。眠ってるのかな……? 何処から来たんだろう……? 何て種族なんだろう……?
右往左往ソワソワ。
近づき、恐る恐る、触れてみた。
──ぷにぷにで……やわらかい……。この子……女の子だ! 若いな……僕と同じ位かな……? 息が……小さい……。
少年はゆっくりと少女の上体を仰向けに起こす。
──怪我してる!? 血が出てる!
少女を抱き抱え、近くで怪我を確認し、少年は目を疑う。
未知との遭遇に興奮していた少年は、直ぐに我に返り、為すべき行動を開始した。
「大丈夫!? ねぇ! 君! 返事はできる?」
少年は大きな声で何度か意識を確認する。
反応は無い──。
──酷いな……傷だらけじゃないか……! とても衰弱して……こんな所で寝てたら死んじゃうよ!
「ここでは治療できない……。僕の家に運ぶね? 持ち上げるよ! ごめんね!」
担ぎ上げようとした時、少女の指先が微かに動く。
「ムウゥ……。タス……ケテ……。み……ず……」
かすれた声で、少女が小さく呟いた。
!?
「気が付いた? 待ってて……良かった……。ちょうど今、持ってるよ!」
少年は腰のベルトから水筒を外し、フタをまわして少女の口元へと運ぶ。
「ほらっ! 水だよ!」
──やっぱり、準備は大切だ……。
幼い頃、母に貰ったちょっとしたアドバイスに、今日も助けられたと、いつものように感謝する。
余程、喉が渇いていたのか、汲んでから一度も口を付けていない水筒の水を、少女はあっという間に全て飲み干してしまう。
「ムウゥ……」
少女はまた意識を失った。
──ヨシッ……急ぐぞっ!
少年は少女を背中に背負い、神に与えられし俊足を疾走らせた。
暗く深い森の奥、緑の葉で覆われた小さな三角屋根、木造作りの小屋、一人ぼっちの四角い窓がぼんやりと赤く揺らいでいる。
「ムウゥ……。ンッ……!? ここは……何処……?」
小屋の中で、少女が目を覚ます。
先ず最初に、視界に捉えた天井がとても近いと思った。
少し視点をズラすと、そのまん中にランタンが一つぶら下がっているのが見える。
「ムウゥ……?」
少女は上体を起こしてさらに室内を見回す。
──床に置かれた錠付きの箱は貴重品の為? 炊事場が見当たらない……。料理は外で作るの……? なら……雨の日は大変そう……。
目だけ動かせば室内がほぼ見渡せて、とても狭い小さな家だと感じた。
ベッドと接する壁の小さな四角い窓から外を覗くと、同じく小さな隣家が建っている。
住人の気配は無い──。
──このベッド……硬くて小さいわ……。隣には……机、椅子……それに……。
ベッドの傍らの椅子に、知らない誰かが背中を向けて腰掛けている。
対面の机に向かい何やら内職をしている様子。
「ムウゥ……」
そのシルエットは長身痩躯。
──大きい……。この家の中だと真っ直ぐ立ち上がれないんじゃ……? 小さい頭……アレは……耳……?
そんな事を少女は考える。
「良かった! 目が覚めた?」
そう言ってこちらを振り返る、二つの大きな黄色い瞳。
──やっぱり耳だ……。黒い……猫……? この状況は……? 確か……知らない森の入口で倒れて……。それとも私……今、夢を見てる……?
少女は恐る恐る、目の前に立つ少年に話しかけようと試みる。
「黒猫……さん? 猫人? 黒猫人? やっぱり……夢……?」
眠ったからか、少女は少しだけ声を取り戻していた。
「夢じゃないよ! ここは猫人国のマタタビノ町の外れ、黒寝子森のずっと奥、ここは僕の家。君は昨日の早朝、森の入口で倒れていたんだ……」
優しそうな表情で、ゆっくりとした穏やかな声で、少年はこれが現実である事と、自分に害意はない事、そして少女が必要としているであろう多くの情報を教えてくれた。
「猫人……始めてみた。猫人国……知ってる。子供の頃、世界地図で覚えたから……。随分……家から離れてしまったのね……」
少女は茫然とし、現実を受け止めきれないでいる。
「……」
少女は乾いた唇を閉ざしてしまった。
二人の間に沈黙した空気が流れる──。
少年は少女に、彼女の怪我の容態についての説明を始めた。
「君……足首が腫れていて、足の裏は皮が捲れて血まみれだった。腕も傷だらけで……発熱もあって……。幸いこの森は傷や発熱に効く薬草がたくさん群生しているから。正直、君はここで見つかって運が良かったよ。それにしても……何があったの……?」
「……」
そう質問したが、吸引力のある赤い瞳は琥珀の瞳をじっと見つめたまま。
──あの状況は普通じゃない……。やっぱり……かなり訳アリなんだね……。
「初対面だし、いきなりは信用できないよね。話したくないなら無理に話さなくても大丈夫だよ!」
少年はそう言って、少女の立場を慮った。